<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
上記の比喩の中で、巨大な森林は三界ーー欲界、色界、無色界を意味している;
旅人たちは、三界に住む衆生を意味している;
正しい道路とは、正見のことである;
間違った道路というのは、邪見のことである。
ここで言う所の正見とは、二種類ある:
一つは、世間的正見で、もう一つは出世間的正見、すなわち、証悟と関連する正見の事である。
この二者の間では、前者は、以下のような正見を意味している。
すなわち、
「すべての衆生は、彼ら自身の行為の主宰者であり、道徳的な行為であろうが、不道徳な行為であろうが、自作自受(=自業自得)であって、これらの行為(業)は、終身、我々自身について回る。」
そして、後のものは、すなわち、12縁起、(五)蘊、処(āyatana)と無我等の、出世間の正見を言う。
この二者の内、前者は生死輪廻に向かう道である。
そして、この幸運の世界(善趣)、すなわち、人類、天人と梵天の住まいは、それら善人の住まいと同等である。
あれら道徳的行為と不道徳行為と、その果報を否定する所の邪見、すなわち、
虚無論(natthikadiṭṭhi)、
無因論(ahetukadiṭṭhi)、
無作見(akiriya-diṭṭhi)
などの邪説、これらの邪見は、あれらの錯誤と同じように、人をして、間違った岐路に入らせてしまう。
あれら不幸な世界(悪趣)は、虐げられる人、動物、餓鬼、阿修羅の住まいであり、それはまるで悪魔の町のようである。
正見を具足するならば、それは証悟へ向かう要素の一つとなるし、それはまことに正しい道であり、我々をして、生死輪廻から出離させてくれる;
また、涅槃はすなわち、善人の住む町のようである。
「私の身体」と「私」の見解は、間違った道、人をして、岐路に導き入れる道である。
この世界は、人類、天人と梵天の住まいであり、また尽きない生死輪廻の場所でもあり、それは悪魔が作った町のようでもある。
上に述べた不正な見(=見解)は、また、見顛倒とも言う。
この種の見顛倒は、「心顛倒」より更に堅固で、深く人心に植わっていて、取り除く事が、非常に難しい。
故に、この三種類の顛倒は、三種類の障礙、とも言われる。
(2-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)
Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>