Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

《Vipassanāハンドブック》6-2(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

同様に、もう一人の人間が:

「真諦によれば、個人は存在しえない。個体の生命も存在していない」と言えば、聞いている者は、この種の言い方を、否定してはならない。

というのも、これは真諦であり、現象界はただ、色法と心法のみが、存在しているのであるが故に。

実際に、個人と個体の生命は、存在していない。

たとえば、人々が、どこかで土を掘り返すとして、その土を塵土に砕き、それらの塵土に水を加えて粘土にし、次に、この粘土でもって各種の鍋、壺、コップを作るとする。

我々は、このテーマを話し合う時、誰かが以下のように問うかも知れない:

「この世界で、土でできた鍋やコップというものはありますか?」

俗諦に基づけば、答えは Yes であるが、真諦に基づけば、No である。

というのも、俗諦では、泥土は確実に存在していて、それでもって鍋などを、作ったのであるから。

この二つの回答の内、前者は解説をしなくても分かる。

というのも、それは、俗的な約束に基づいているが故に。

後者は、少し説明が必要かもしれない。

真諦から言えば、我々が言う所の「陶製の鍋」と「陶製のコップ」は、実際に存在しているのは泥土であり、鍋でもなければ、コップでもない。

というのも、「泥土」というこの詞は、鍋を指さないし、コップをも指ささず、実質を有する泥土を指すが故に。

「鍋とコップ」というこの詞は、泥土の形容に用いられているのではなく、それは鍋とコップの外形からそう呼ばれるのであり、それは一種の形状を伴った概念であり、この種の概念は、塵土を除いて、それ以上分解する事の出来ない、基本的物質である。

それらは、心に顕現した所の特殊な外形、形状に過ぎず、それらは粘土によって作られた器皿の、外形的な概念に過ぎないのである。

故に、真諦に基づけば、「陶製の鍋とコップは存在しない」と言う言い方は、全くの疑う余地もなく受け入れられるのである。

(7-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》(原題 Vipassanā Dipanī)

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>