Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

翻訳『禅修指南』9-30(200/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(三)不作為理

(Abyāpāranaya)

諸々の因は、果を生起させようと、尽力している訳ではない。

諸々の果にもまた、以下の様な作為はない:

「もし、諸々の因が生起したならば、我々も生起しよう。」

無明にも、以下の様な作為はない:

「私は、行を生起させよう。」

行もまた、以下の様な作為はない:

「私は、識を生起させよう。」

無明、行等などに、まったく、何等の作為がない事を、不作為理という。

もし、禅修行者が、己自ら、徹底的に、不作為理を知見したならば、彼は、我見(atta diṭṭhi)、すなわち、造作を行う所の「霊魂我」(jīva atta)が存在している、という我見を、断じ除く事ができる。

諸々の因(たとえば、無明)が、諸々の果(たとえば、行)を生起せしめるのは、自性定法(sabhāva niyāma)であり、何らかの造作があるが故に、果が生起せしめられる訳ではない。

しかし、観法に誤謬がある時、無作見(akiriya diṭṭhi):

「何かを造したが、何も造していない」(+という見解)を持つことになる。

自性定法

もし、因(たとえば、無明)があるならば、果(たとえば、行)は生起する。

もし、因がないならば、果は生起しない。

言い換えれば、無明、愛、取、行及び業の諸々の因がある時、識、名色、六処、触と受の諸々の果も、生起する。

これはまさに、自性定法によって生起するのである

(sabhāva niyāma siddha hetu bhāva)。

もし、人が、因が果を引き起こす、という自性定法を受け入れる事が、出来ないのであれば、業力と果報を、排斥、否定する無作見は、生起する。

(9-31につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>