Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

翻訳『禅修指南』9-30(200/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(三)不作為理

(Abyāpāranaya)

諸々の因は、果を生起させようと、尽力している訳ではない。

諸々の果にもまた、以下の様な作為はない:

「もし、諸々の因が生起したならば、我々も生起しよう。」

無明にも、以下の様な作為はない:

「私は、行を生起させよう。」

行もまた、以下の様な作為はない:

「私は、識を生起させよう。」

無明、行等などに、まったく、何等の作為がない事を、不作為理という。

もし、禅修行者が、己自ら、徹底的に、不作為理を知見したならば、彼は、我見(atta diṭṭhi)、すなわち、造作を行う所の「霊魂我」(jīva atta)が存在している、という我見を、断じ除く事ができる。

諸々の因(たとえば、無明)が、諸々の果(たとえば、行)を生起せしめるのは、自性定法(sabhāva niyāma)であり、何らかの造作があるが故に、果が生起せしめられる訳ではない。

しかし、観法に誤謬がある時、無作見(akiriya diṭṭhi):

「何かを造したが、何も造していない」(+という見解)を持つことになる。

自性定法

もし、因(たとえば、無明)があるならば、果(たとえば、行)は生起する。

もし、因がないならば、果は生起しない。

言い換えれば、無明、愛、取、行及び業の諸々の因がある時、識、名色、六処、触と受の諸々の果も、生起する。

これはまさに、自性定法によって生起するのである

(sabhāva niyāma siddha hetu bhāva)。

もし、人が、因が果を引き起こす、という自性定法を受け入れる事が、出来ないのであれば、業力と果報を、排斥、否定する無作見は、生起する。

(9-31につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>