南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー問答集~#070、#071>問答7-10、7-11

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#070-150816

問7-10 心(citta)と見(diṭṭhi)は、どのように異なりますか?

答7-10 心とは心識を指します。しかし、心清浄の中では、それは特に近行定禅心(upacāra-samādhi-citta)と安止定禅心(uppanā-jhāna-citta)を指します。見とは邪見の事で、心所(cetasika)の一種です。それは四種類の、邪見と相応する、貪を根とする不善心(diṭṭhi-sampayutta-lobhamūla-citta 見相応貪根心)と同時に生起します。貪を根とする心(lobhamūla-citta)は、貪愛及び邪見又は驕慢と相応する心です。

邪見の中の一種類は、我想(atta-saññā)です。二種類の我想があります。一種類は、男性、女性、父親、母親などが存在していると思う事です。これは伝統的な踏襲による邪見で、我々はそれを「世間的通称我論」(loka-samaññā-attavāda)と呼びます。もう一つ別のものは、破壊不可能な自我(atta)が存在していると思う事で、我々はこれを「我見」(atta-dhiṭṭhi)と呼びます。これ以外に、破壊不可能な我は創造者(parama-atta最高我)によって作られたという考えがあり、これも一種の邪見です。我々はこれも「我見」(atta-diṭṭhi)と呼びます。

31界の中で、自我は存在しておらず、ただ名色とそれらの因縁のみ存在しており、それらは無常・苦・無我なのです。31界の外にも自我は存在していません。故に観智(すなわち、正見)は、一時的に我見を含む邪見(micchā-diṭṭhi)を破壊する事ができます。道智(magga-ñāṇa すなわち、道正見 magga-sammā-diṭṭhi)は、完全に邪見を取り除く事が出来ます。ここでは三種類の見があることになります。

  1. 邪見。
  2. 観禅正見(vipassanā-sammā-diṭṭhi):世間(lokiya)的正見。
  3. 道正見(magga-sammā-diṭṭhi):出世間(lokuttara)的正見。

 

《梵網経 Brahmajāla Sutta》の中で、62種類の邪見について述べられていますが、この62種類の邪見は、すべて我見から生じています。この我見は、身見(sakkāya-diṭṭhi 個体常住見)とも言います。身体(sakkāya 個体)とは五蘊を指します。身見とは、五蘊を我と認める、邪見の一種です。また、正見も色々な種類があります。「ジャーナ正見」(jhāna-sammā-diṭṭhi)、すなわち、禅支と相応するジャーナの智慧;「名色摂受正見」(nāmarūpa-pariggaha-sammā-diṭṭhi)。すなわち、究竟名色を透視する観智;「業果正見」(kammasakatā-sammā-diṭṭhi);因縁を識別する智慧(paccya-pariggaha-ñāṇa縁摂受智);「観禅正見」(vipassanā-sammā-diṭṭhi)、すなわち、名色とその他の因縁の無常・苦・無我の本質を透視する観智;「道正見」(magga-sammā-diṭṭhi)と「果正見」(phala--sammā-diṭṭhi)、すなわち、涅槃を認知対象とした正見。これらのすべての正見は、四聖諦の正見(catusacca-sammā-diṭṭhi)と言われる。

#071-150816

問7-11 修行者は如何にして日常生活の中、また止観の修行の中で、如理作意(yoiso-manasikāra)の練習をするのですか?

答7-11 最もよい如理作意は、観禅(vipassanā)です。もし、修行において、観禅の段階にまで到達する事ができたならば、最も良い如理作意を理解する事ができるでしょう。もし日常生活の中で、観禅(vipassanā)を修行できるならば、それは善果を生じます。たとえば涅槃を透視する道と果。しかし、あなたが未だ観禅(vipassanā)の段階に来ていないのであれば、あなたは一切の行法は無常である(sabbe saṅkhārā aniccā 諸行無常)と思惟するべきで、これも如理作意です。ただ、この如理作意は大変に弱く、「二番手」(間接的)な如理作意になります。

あなたは四梵住(brahmavihāra)、特に捨梵住(upekkhā-brahmavihāra)を修行するのもよいです。それは上等の如理作意です。というのも、捨梵住は業の法則を「sabbe sattā kammasakā」――「一切の衆生は、業を自分の所有物となす」と見なすからです。時々、あなたは不如理作意が生み出す悪果を思惟するべきです。不如理作意が原因で、多くの不善業が一つなぎになって生起します;これらの不善業は、四悪道(apāya)の諸々の苦の果報を生じさせます。このように理解する事自体が如理作意です。あなたは毎日の生活の中でそれを練習しなさい。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。