問7-10:心(citta)と見(diṭṭhi)の間には、どの様な違いがありますか?
答7-10:心(citta)はすなわち、「識」または「意」であるが、しかし、心清浄の中においては、それは特に、一種の心を指す:
近行定心(upacārasamādhi)または安止ジャーナ心(appanājhāna citta)<注406>である。
見(diṭṭhi)とはすなわち、邪見であり、それは一種の心所(cetasika)である。
それは、四種類の貪根心と一緒に生起する。
貪を根とする心(lobhmūlacitta)は、ある時は邪見と相応し、ある時は、慢と相応する。
この種の邪見は我想(attasaññā)と言うが、それは二種類ある:
1)世間通称我論(lokasamaññā-attavāda):
これは、世間的な習慣が原因で生起する所の邪見であり、それはすなわち、男性、女性、父親、母親などの考え方・概念。
2)我見(attadiṭṭhi):
これは、貪愛(taṇhā)によって生起する所の邪見。すなわち、一個の、壊滅しない私、自我(atta)が存在するという認識。この、壊滅しない私、自我が存在するというは、創造主(paramatta、至上我)が作ったのだという考え方も含む。
31界の中において、「私(自我)」というものはなく、ただ名色法及びその因があるのみであって、それらは常に、無常・苦・無我なのである。
この31界の外にもまた、私、自我というものは、ない。
この種の観智を観正見(vipassanā sammādiṭṭhi)と言い、それは、暫定的に、我見を含む邪見(micchādiṭṭhi)を鎮伏することができる。
しかし、道智(maggañāṇa)、またすなわち、道正見(magga sammādiṭṭhi)は、完全に邪見を断じ除くことができる。
故に、実際には、三種類の見がある:
1)邪見(micchādiṭṭhi)。
2)観正見(vipassanā sammādiṭṭhi)。
3)道正見(magga sammādiṭṭhi)。これは出世間(lokutara)正見に属する。
《長部・梵網経》(Brahmajāla Sutta)の中において、62種類の邪見すべてについての議論が載っているが、それらは、皆、所謂「有身見」(sakkāya)と呼ぶ所の、我見を源としている。
有身(sakkāya)とはすなわち、五蘊のことであり、故に、有身見とはすなわち、五蘊を自我(己自身)と見做す見(見解)のことである。
正見には、多くの種類が存在する。たとえば、「四諦正見」(Catusacca sammādiṭṭhi)と呼ばれる所の正見;
ジャーナ正見(jhāna sammādiṭṭhi):禅支と相応する所のジャーナの智;
名色摂受正見(nāmarūpapariggaha sammādiṭṭhi):すなわち、名色限定智;
業自属正見(kammassakatā sammādiṭṭhi):すなわち、縁摂受智;
観正見(vipassanā sammādiṭṭhi):名色法及びその因の無常・苦・無我の本質への観智;
道正見(magga sammādiṭṭhi):涅槃に関する智;
果正見(phala sammādiṭṭhi):涅槃に関する智。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>