南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『親知実見』#47-11

問7-10:心(citta)と見(diṭṭhi)の間には、どの様な違いがありますか?

答7-10:心(citta)はすなわち、「識」または「意」であるが、しかし、心清浄の中においては、それは特に、一種の心を指す:

近行定心(upacārasamādhi)または安止ジャーナ心(appanājhāna citta)<注406>である。

見(diṭṭhi)とはすなわち、邪見であり、それは一種の心所(cetasika)である。

それは、四種類の貪根心と一緒に生起する。

貪を根とする心(lobhmūlacitta)は、ある時は邪見と相応し、ある時は、慢と相応する。

この種の邪見は我想(attasaññā)と言うが、それは二種類ある:

1)世間通称我論(lokasamaññā-attavāda):

これは、世間的な習慣が原因で生起する所の邪見であり、それはすなわち、男性、女性、父親、母親などの考え方・概念。

2)我見(attadiṭṭhi):

これは、貪愛(taṇhā)によって生起する所の邪見。すなわち、一個の、壊滅しない私、自我(atta)が存在するという認識。この、壊滅しない私、自我が存在するというは、創造主(paramatta、至上我)が作ったのだという考え方も含む。

31界の中において、「私(自我)」というものはなく、ただ名色法及びその因があるのみであって、それらは常に、無常・苦・無我なのである。

この31界の外にもまた、私、自我というものは、ない。

この種の観智を観正見(vipassanā sammādiṭṭhi)と言い、それは、暫定的に、我見を含む邪見(micchādiṭṭhi)を鎮伏することができる。

しかし、道智(maggañāṇa)、またすなわち、道正見(magga sammādiṭṭhi)は、完全に邪見を断じ除くことができる。

故に、実際には、三種類の見がある:

1)邪見(micchādiṭṭhi)。

2)観正見(vipassanā sammādiṭṭhi)。

3)道正見(magga sammādiṭṭhi)。これは出世間(lokutara)正見に属する。

《長部・梵網経》(Brahmajāla Sutta)の中において、62種類の邪見すべてについての議論が載っているが、それらは、皆、所謂「有身見」(sakkāya)と呼ぶ所の、我見を源としている。

有身(sakkāya)とはすなわち、五蘊のことであり、故に、有身見とはすなわち、五蘊を自我(己自身)と見做す見(見解)のことである。

正見には、多くの種類が存在する。たとえば、「四諦正見」(Catusacca sammādiṭṭhi)と呼ばれる所の正見;

ジャーナ正見(jhāna sammādiṭṭhi):禅支と相応する所のジャーナの智;

名色摂受正見(nāmarūpapariggaha sammādiṭṭhi):すなわち、名色限定智;

業自属正見(kammassakatā sammādiṭṭhi):すなわち、縁摂受智;

観正見(vipassanā sammādiṭṭhi):名色法及びその因の無常・苦・無我の本質への観智;

道正見(magga sammādiṭṭhi):涅槃に関する智;

果正見(phala sammādiṭṭhi):涅槃に関する智。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>