Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-32

     <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

【引証】粗い煩悩から微細な煩悩への浄化ーー《増支部・三法集・第100経》

「比丘たちよ。金(鉱)の中には粗雑な物質がある。ちょうど泥と砂礫(+の関係)のように。

鍛冶屋、または鍛冶屋の弟子は、先に金を水槽に入れて洗い、こすり、清潔にする。

このように、雑質を取り除いた後、金の中には、いまだ、中程度の雑質がある。ちょうど、細かい砂礫と砂(+との関係)のように。

彼は更に金を洗い、こすり、清潔にする。

このように雑質を取り除いた後、金には、いまだ微細な雑質がある。

ちょうど、細かい砂礫と黒砂(+との関係)のように。

彼は、更に金を洗浄し、こすり、清潔にする。

このようにして、雑質を取り除いた後、最後には、金粉だけになる。(2-33につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-31

     <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

浄化の過程

ある種の人々にとって、行道は艱難である。 

五蓋等の、敵対する状況の頑強な抵抗の為に、行道は困難になる。《清浄道論・第三章》

人々は、時々、理解できなくなる:

ある種の人々にとって、止禅の修行の進歩は非常に速く、ある種の人々は、非常に遅い事に。

正確な方法を運用する事以外に、最も重要な要因は:

ある種の煩悩が、我々に障礙を齎している、という事である。

故に、もし、我々が、真心から、本物の修行者でありたいのであれば、修行の過程の中において、己の煩悩を克服するよう、努力しなければならない。

もし、我々が、己自身の内面における劣悪な傾向を改めようとしないならば、たとえ、絶え間なく座禅・瞑想しようとも、我々は、その場所に引っかかったまま、更に一歩進んで進歩することは、できない。

定の修習の過程において、心は煩悩を、徐々に浄化することができる。

粗い煩悩から微細な煩悩まで、いくつかの段階を経て浄化され、最後に禅那(=ジャーナ)に到達する。

経典の中で、仏陀は、鍛冶屋における冶金の作業を譬えにして、定の修習の進展に伴う、各段階における浄化について、描写している。

(2-32につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-30

     <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

座禅・瞑想(+を意識的に)終わらせる事、すなわち、収功は、気の滞りを治すよい方法である。

この事は、気功の鍛錬を終わらせようとする人が、収功を、必ず行わなければならないのと同じ道理であるが、双方ともにそれは、エネルギーを回収し、気血を通らせ、座禅・瞑想または気功の鍛錬における成果を回収して、己自身に利用できるようにし、また、ネガティブな作用が生じるのを防ぐことでもある。

収功の後においては、あなたは、定を修習した功徳を親友、仇敵、護法神等、ないしは一切の衆生に、回向するべきである。

その後に、以下のような懺悔をする、すなわち;

誠心誠意、真心をもって、己が以前、礼を失したことのある、すべての衆生に対して謝り、彼らに許しを乞う事。

ある種の人々は、定の修習の前に、先に懺悔をするのが好きであるが、それもまた、大変によい方法である。

最後に、両手を熱くなるまでこすり、頭部、顔と肢体を按摩し、その後にゆっくりと体を起し、その他の事柄に取り組む。

◆結論

(一)収心ーー修行の目標を手放し、心をして、日常の境界に戻ってくるようにさせる。

(二)収功ーー

1、すべての、良質のエネルギーを身体の内に回収する。

2、身体の各部位を感受する事と、一切の執着を放下することを通して、エネルギーを全身にいきわたらせる。

(三)立ち上がる前にーー

1、功徳を、親友、護法神などに回向する。

2、礼を失したことのある一切の衆生に、許しを乞う。

3、肢体を按摩する。

(2-31につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-29

    <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

方法:心をして、各々の身体の部分について、

一時、(+生じる感覚を)感受せしめる。

ただし、その感受が鮮明であろうが、鮮明でなかろうが、(+心は)そこにとどまってはならず、次から次へと、次の身体部分を感受をするようにする・・・。

このような方法で、身体の各部分を感受する時、回収されたエネルギーは、全身の各部位に、平均的に散布されるようになり、気血の循環もまた、自然に通りがよくなる。

このように実践すれば、心をして、活力をみなぎらせるようにできるだけでなく、また、心をして、活発・敏感にさせることもでき、どのような仕事、または使命でも、それを完遂する事に、適応できる。

ある種の修行者について言えば、もし、上述の方法が不適切である時、それでも問題はない。

ただ必要なのは平静さであって、心が自在さ、活発さを感受してから後初めて、エネルギーの回収作業を実践して、それを感受するようにすれば、気血は、全身に通るようになる。

ある種の人々は、座禅・瞑想の時、頭部の重苦しさ、頭の膨張感、頭痛、または胸のつまりを感じることがある。

これは、気が、頭部または胸部に滞ることから生じる現象である。

定の修習においては、心を一か所に専注させる為、気もまた、一か所に集まってきてしまう。

最も凝集しやすい場所は、頭部と胸部である。

この事は、身体において、不適応を生じせしめるだけでなく、定の修習における、順調な進展にも影響する。(2-30につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-28

     <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

【瞑想を終了する方法】

あなたが、心を呼び戻し、かつ、全身の粗さを、一定時間感受した後、内心において、己自身に、以下のように呼びかける:

「願わくば、私が発散した一切のエネルギーが、すべて、我が心内に戻ってきますように。」

このように想った後、心を静かに心輪(=胸のチャクラ)一帯に留めて置く。

その時、どのような感じがしても、そこにおいて、自在にそれを体験する事。

その後に、あなたは、上方、下方、前方、後方、左側、右側などの、すべてのよいエネルギーが、心内に戻ってくるように、祈願する。

毎回祈願する毎に、心はただ、心輪において保持し、何事も、静かに体験するようにする。

このようにエネルギーを回収した後、あなたは、エネルギーが、全身に均等に分布されるようにする。

あなたは、下記の内の、一種類の方法を選択して、当該の効果に到達するようにすると良い。

(一)心を全体的にスキャンする。頭から足の先まで、何度か重複して行い、その後に、静かに(+心を)心輪に保持する。

(二)心をして、「頭髪、体毛、爪、歯、皮膚」という、この五種類の身体部分を逐一、重複して、約 15 回ほど、感受するようにする。

その後に、頭から足までの全身をスキャンする。上記五種類は、10種類まで増やしてもよい。

すなわち、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、筋肉、筋・腱、方法、骨、骨髄、腎である。何度か重複して行う。

このように実践した後、最後に心をして、静かに心輪に保持せしめる。(2-29につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-60

    <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

捨離随念を通して、たとえば、自分自身お腹がすいている時に、美味しい食べ物を、梵行の友人に布施したことなどを省察する時、喜覚支は生起する。

自分自身には、衆生が天神になることを可能にさせる信、戒、善行、究極法とその因に関する聖典への博学、捨、智慧などの品徳を擁することを省察する時、喜覚支は生起する。

もし人が、以下のように寂止を省察する時、喜覚支は生起する:

「高等なる成就によって、鎮伏した煩悩は、60 年の間、または 70 年の間、生起することはない。」

粗野な人間から遠く離れる人には、喜覚支が生じる。

粗野な人間とは、(+心が)腐敗しており、粗野で、仏塔、菩提樹と、諸々の長老を敬わない人である。

というのも、彼らは、仏陀などにたいして、信心も敬愛心もなく、まるでラバの背中についた泥の様である。

仏陀などに対する信心を(+心に)充満させ、内心が柔和で、他人を大切にする心を充満させている人は、同じく喜覚支は生起する。

信心を激発することのできる経文、すなわち、三宝の特質を顕示する事の出来る経文を省察することも、喜覚支を生起させることができる。

行、住(=立ち止まる事)、座、臥の一切の姿勢と動作において、心をして、喜覚支を励起することができる人において、喜覚支は生起する。

上記の如くに、これらの方法を用いて、これらの法を励起せしめ、彼は択法、精進と喜という、この三種類の覚支を育成する。

以上が、人が、精進するべき時に、どのようにして、心をして精進せしめるのか、という(+説明である)。

(5-61につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-59

    <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

8-6-4-3 喜覚支を生起させることのできる11種類の方法

1,仏随念;

2,法随念;

3,僧随念;

4,戒随念;

5,捨離随念;

6,天随念;

7,寂止随念;

8,粗野な人から遠離する;

9,教養ある人に親しむ;

10,信心(=法への確信)を激発する事のできる経文を省察・思考する;

11,喜覚支を育成すると決意する。

仏陀の特徴を随念することを通して、近行定を得る時、全身を遍満する喜覚支は生起する;法と僧の特徴を随念することを通して、喜覚支は生起する;四遍清浄を完璧に守って、一定の長い期間を経た比丘は、己の戒を省察する時、喜覚支は生起する;在俗居士は、己が保つ5戒、8戒または10戒を省察する。

(5-60に続く)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>