南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-60

    <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

捨離随念を通して、たとえば、自分自身お腹がすいている時に、美味しい食べ物を、梵行の友人に布施したことなどを省察する時、喜覚支は生起する。

自分自身には、衆生が天神になることを可能にさせる信、戒、善行、究極法とその因に関する聖典への博学、捨、智慧などの品徳を擁することを省察する時、喜覚支は生起する。

もし人が、以下のように寂止を省察する時、喜覚支は生起する:

「高等なる成就によって、鎮伏した煩悩は、60 年の間、または 70 年の間、生起することはない。」

粗野な人間から遠く離れる人には、喜覚支が生じる。

粗野な人間とは、(+心が)腐敗しており、粗野で、仏塔、菩提樹と、諸々の長老を敬わない人である。

というのも、彼らは、仏陀などにたいして、信心も敬愛心もなく、まるでラバの背中についた泥の様である。

仏陀などに対する信心を(+心に)充満させ、内心が柔和で、他人を大切にする心を充満させている人は、同じく喜覚支は生起する。

信心を激発することのできる経文、すなわち、三宝の特質を顕示する事の出来る経文を省察することも、喜覚支を生起させることができる。

行、住(=立ち止まる事)、座、臥の一切の姿勢と動作において、心をして、喜覚支を励起することができる人において、喜覚支は生起する。

上記の如くに、これらの方法を用いて、これらの法を励起せしめ、彼は択法、精進と喜という、この三種類の覚支を育成する。

以上が、人が、精進するべき時に、どのようにして、心をして精進せしめるのか、という(+説明である)。

(5-61につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>