<Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>
捨離随念を通して、たとえば、自分自身お腹がすいている時に、美味しい食べ物を、梵行の友人に布施したことなどを省察する時、喜覚支は生起する。
自分自身には、衆生が天神になることを可能にさせる信、戒、善行、究極法とその因に関する聖典への博学、捨、智慧などの品徳を擁することを省察する時、喜覚支は生起する。
もし人が、以下のように寂止を省察する時、喜覚支は生起する:
「高等なる成就によって、鎮伏した煩悩は、60 年の間、または 70 年の間、生起することはない。」
粗野な人間から遠く離れる人には、喜覚支が生じる。
粗野な人間とは、(+心が)腐敗しており、粗野で、仏塔、菩提樹と、諸々の長老を敬わない人である。
というのも、彼らは、仏陀などにたいして、信心も敬愛心もなく、まるでラバの背中についた泥の様である。
仏陀などに対する信心を(+心に)充満させ、内心が柔和で、他人を大切にする心を充満させている人は、同じく喜覚支は生起する。
信心を激発することのできる経文、すなわち、三宝の特質を顕示する事の出来る経文を省察することも、喜覚支を生起させることができる。
行、住(=立ち止まる事)、座、臥の一切の姿勢と動作において、心をして、喜覚支を励起することができる人において、喜覚支は生起する。
上記の如くに、これらの方法を用いて、これらの法を励起せしめ、彼は択法、精進と喜という、この三種類の覚支を育成する。
以上が、人が、精進するべき時に、どのようにして、心をして精進せしめるのか、という(+説明である)。
(5-61につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>