Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-113

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

無尋無伺:

修習を通して、捨離をした為に、このジャーナには、尋がない。この種の解釈は、伺にも適用する事ができる。

《分別論》も、以下のように言う:

「故に、この尋と、この伺は、すでに平静にされ、平静になり、止息しており、平息しており、完全に平息しており、除去されており、完全に除去されており、乾いており、完全に乾いており、終わっている;

故に:無尋であり、無伺である、と言う。」

定から生まれる:

その意味は、初禅定、または相応の定から生じる、という事である。

初禅もまた、相応の定によって、生じるのではあるが、しかし、この定だけが「定」と呼ばれる。故に、それは完全に自信があり、また、尋と伺の干渉を受けない為に、極めて動揺し難い。

故に、ただこのジャーナのみを「定より生じる」と言う。このような言い方は、それを育成する事を勧めるためである。

(5-114につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-112

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-9-1 尋と伺の止息(=止むこと)

ここにおいて「尋と伺の止息」とは、この両者を超越したその後にしか、第二禅に入れない事、を意味している。

自信:この言葉の意味は、信じる事、と同じである。ジャーナは、尋と伺によって生じた所の干渉を超越した時、初めて「自信がある」ようになるが故に。

[人は]問うかもしれない:

「この自信は、初禅においても存在していたのではないですか?なぜ、第二禅になって、初めて『自信と定心が生じる』などと言うのですか?」

この件に関しては、以下のように回答することができる:

尋と伺によって生じた干渉は、水が、さざ波または波動の干渉を受けるようなもので、初禅は、完全に自信を擁することができない。これが、信はすでにその中に存在してるものの、それを「これは自信である」等と称する事ができない理由である。自信が欠乏している為に、定もまた、明確ではない。

これがなぜ(+第一禅の定を)「有定心(=定有る心)」と呼ばないのか、という理由である。

しかし、第二禅の中の信が堅固であるのは、尋と伺の障礙がなく、立脚点がある為である;

定もまた、堅固で強い信が随伴しているが故に、明確に生起する。

これが、このジャーナが、どうしてこのように形容されるのか、という理由の説明である。

《分別論》もまたこのように言う、すなわち、「自信」の定義を、信、自信、信じる事、完全な自信、としている。「定心」は、心の安定・・・正定である。

(5-113につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」1-19

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

涅槃は、心ではない。

それは、心の所縁である。

実相般若が非常に強い時、心は、凡から聖へと、転換する事ができる。

この種の転換を、道刹那と呼ぶ。

道刹那の後ろには、道果が続く。

両者は皆、涅槃を所縁とする。

苦の因が滅した時、苦(果)は、その道において、殊勝な道刹那によって、滅せられる。

悟道の四つの道とは:

入流果、一来果、不還果と円覚または円満者(阿羅漢果)である。

10種類の束縛が、我々の悟道を障礙している:

すなわち、

1、我見(=私が存在しているという見解)。

2、仏陀の教法への懐疑。

3、儀式または各種の式に執着する事(戒禁取見)。

(これは、何らかの儀式を信じる事、たとえば、線香を焚く、または慣例的な行為または礼拝が、涅槃へと導くと考える等の、何らかの信仰を意味する)

4、欲貪。

5、瞋恚と怨恨。

6、色貪。

7、無色貪。

(色界は、色身の存在する場所である。無色界は、心だけが存在する場所である。

故に、6と7は、天界を追い求める生存の欲である)。

8、慢。

9、掉挙。

10、無明。

こうしたことから、最初の道、入流果の道刹那は、前の三種類の束縛を、断じ除く;

第二番目の道、一来果の道刹那は、第四、第五の束縛を弱める;

三番目の道、不還果の道刹那は、第四、第五の束縛を断じ除く;

第四番目の阿羅漢果の道刹那は、残りの五つの束縛を断じ除く。

c)あなたは如何にして、涅槃を見るのか?

もし、涅槃を見たいのであれば、必ず、正確な方法で、四念処を修しなければならない。

正確に四念処を修する事は、悟道へ向かう、唯一の道である。

仏陀は言う:

「比丘たちよ!

この道は、凡夫をして、清浄に導く、唯一の道である。(《大念処経》、長部第22経)。」

四念処は、37道品の最初の基礎である。

仏陀が修した事のあるように、37道品は、我々をして、四聖諦を体験・証悟せしめる事ができる。

心が完全に煩悩を清らかに断じ除いた時、あなたはそれを、己自身で知る事ができるーー他人に教えてもらう必要はないーーというのも、涅槃は実相であり、あなた自身によって知られるものであるが故に。

ちょうど、比丘が誦する偈のように:「毎個人由他自見(一人ひとりは、自ずと自ら見る)」。

(1-20につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」1-18

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

これらは、非常によい質問である。

というのも、仏教徒は皆、苦を滅したいと考えており、苦を滅したければ、涅槃を証得しなければならないからである。

我々は、手短に、これらの疑問に対して、答えたいと思う。

もし、あなたが修行に成就した時、あなたは更にはっきりと、知る事になるであろう。

a)涅槃とは何か?

涅槃とは、短い、暫定的な、道刹那の所縁である。涅槃は実相であり、または自然な事物の真実の状態である。

道刹那は、涅槃を所縁として、煩悩を断じ除く事ができ、苦を滅する事ができる。

苦とは「我(=私)」(心身)である。もし、「我」(心身)がないならば、諸々の、たとえば、老、病、死などなどの苦はないのであるーー涅槃の状態には、五蘊がない。五蘊は、真正なる苦(苦諦)である。

我々一人ひとりは、皆、五蘊によって構成されている:すなわち、色、受、想、行、識である。

また、もっと簡単に言えば、五蘊とは、身体(色法)と心(心法)である。五蘊の後ろの四つの項目は、心法である)。

五蘊は苦の真理(苦諦、または第一聖諦)である。

苦諦はずっと存在し続けているが、しかし、通常、我々はそれを体験・体得する事がない。

というもの、それは煩悩(渇愛)が原因で、また、煩悩が我々を創造してもいるからである。我々を創造する所の煩悩は、我々と共に長時間共に、存在し続けているーー我々がそれに対して、何等かのアクションを起こさない限りは。

b)涅槃とはどこにあるのか?

涅槃はあるどこか一つの場所、というものではない:それはどのような場所でもない。

どのような人も、たとえ超能力を有する人であっても、涅槃がどこにあるのかと、答える事は出来ない。

涅槃は天国・浄土でもない;

涅槃は風のようである;

ただ、それの作用によって、それの存在を知ることができる。

涅槃は、非常に殊勝な道刹那の所縁であり、涅槃は、この種の道刹那心の所縁なのである。

凡夫は、煩悩の中に沈潜しているが、しかし、彼がヴィッパサナを修して、実相般若を啓発したなら、彼の心は清浄になる。

これを、道刹那と道果、という。

この両者は、涅槃を所縁としている(16階智の中の14階智と15階智である。)

(1-19につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~Simple is best 続き

昨日のブログ<是誰庵のひとやすみ~尼僧認定>では、

<Simple is best>で終わりましたが、実は<Simple is happy>とも言えます。

まず基本は、今、ある種の問題が目の前にあるとして、それをそれ以上、複雑にしてはいけない、という事です。

問題の本質を整理して一点に絞り、それが解決できればよし、解決できなければ早めに諦める、放置、let it be ・・・そんな感じです。

これはまだ頭で考えているレベルですが、般若心経に通じる修行方法としては、<6根を護る>というものがあります。

6根とは、目、耳、鼻、舌、身体、意(心)の事で、我々人間は、この6根から情報を取り入れている訳です。

その時、仏法を知らない人、修行した事のない人は、情報が入ってくるまま、受動的に情報に振り回されるのですね。

そしていつも「誰々が悪い」と、原因を外部に求めます。

しかし、本当に悪いのは、6根からの情報に振り回される、自分自身なのです

で、目で物を見た時、耳で言葉を聞いた時・・・必要以上に興奮していないか、必要以上に掴んでいないか(これを、ゴータマ仏陀は「世間は燃えている」と表現しました)・・・己自身を点検するのです。

点検している間に、心も落ち着いてきて、必要な情報と、捨ててもよい情報、捨てた方がいい情報、と分類ができてきます。

そして、後者二つの情報は捨ててしまう・・・残るのは simple な happy です。

・・・《六根を護れ》

ゴータマ仏陀の教えです(朝夕、座禅・瞑想~安般念の修行をするといいでしょう)。

追記:「『誰々が悪い』と外部に原因を求めてはいけない」と言うと、今度は、外部は常に正しい、悪いのは常に自分だ、という自虐に走る人いますが、それも極端です(私がこのタイプで、その為、過去においては、問題解決能力は最低でした)。

問題の発端が外部にある場合もあれば、自分にある場合もあります。過剰な自虐も、過剰な他者攻撃も問題をこじらせてしまう一因です。

初因がどちらにあっても、それを上手に処理できない自分は、まだまだ器が小さい、という風に思いなして、6根を守る修行を続ければ、問題が起きても、芽の小さい内に処理する事ができるようになります。お試しあれ。

「身念処」1-17

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

禅定の修行は、仏陀の(+生まれる)前から、存在していた。

仏陀は、最高の(第八次第)禅定を成就するまで、禅定の修習をした。

しかし、彼はこの種の定は、潜在的な煩悩を断じ除く事ができないことに気が付いた。

その後、彼は、八聖道を発見して、四聖諦を体験・証悟したーーすなわち、、道を悟ったのである。

その後に、彼は言った:「これは私の最後の生である」と。

このことから、悟道(涅槃)は、煩悩を断じ除いて、苦を滅する事ができるーー二度と輪廻しないーー故に我々は、ただ涅槃だけが楽である、のだと言うのである。

世界のすべての哲学の中で、仏法だけが、苦の滅に関する智慧にふれている。

我々は、どのようにしてこの事を証明するのか?

しっかりと八聖道を守れば、苦の因ーー煩悩ーーを断じ除くことができる。そして、煩悩は、ただ智慧によってのみ、断じ、取り除くことができるのである。

修行の成就は、智慧を増長(=増強)することができる。

そして、この種の智慧(内観または実相般若)は煩悩を断じ除くことができる。すなわち、仏法だけが、完全に煩悩を断じ、除く事ができるのであるーーその意味は、涅槃への到達である。

これは、八聖道を学び、修習すれば、智慧を増長(=増強)することができる事を証明しているものである。

最後に、以下に述べるこれらの問題は、涅槃に関する重要な課題である:

a)涅槃とは何か?

b)どこが涅槃か?

c)あなたは、どのようにして、涅槃を見るのか?

(上記の疑問の意味は、あなたが、涅槃の存在を信じている、という事を前提として・・・)

(1-18につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-16

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

戒・定・慧が合わさって、八聖道になる。

では、戒・定・慧とは、何であるか?

我々は、先に持戒が清浄のレベルになって後に初めて、定と慧を体験・証悟する事ができるのであろうか?

八聖道の中の戒・定・慧は、同時に一緒に修するのであって、一回につき、一種類を修する訳ではない。

たとえば、三種類の成分を含む丸薬があるとして:

我々は、一回で、全部飲み込んでしまう。

定の修習は、平静で、喜悦であるーー特に、専注(深い定)に到達した人にとっては、定は非常に快楽(=楽しい、楽)である。

そうであるならば、なぜ我々は、唯一、涅槃だけが楽であると言うのであろうか?

定の修習は善法である。

定は煩悩(蓋)を降伏することができるが故に。

しかし、それは暫定的な平静で、ただ五蓋が(+一時的に)制圧せられて、定の状態を維持できているだけであって、また、快楽の程度も、禅定の深さ、浅さによって決定される。

しかも、この種の禅定の楽は、いまだ苦楽の輪廻の中にある。

(1-17につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>