Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~えびす丸ストーカー中

玄関で三つ指ついて正座するえびす丸

えびす丸(トイ・プ。雄。保護犬)が精舎に来て、9か月。6月で満三才です。

前の飼い主に可愛がられていた様で、人間大好き。

精舎に来た日の夜、一晩だけ遠吠えした後、翌日からすぐに、私に懐きました。

9か月後の現在、私に対する、情熱的なストーカーになりました・・・

朝起きぬけに、顔をペロペロ、耳までペロペロ、綺麗にしてくれます(起き抜けの洗顔、省略できそうなくらい~笑)。

写真は、私が10分間ほど庭に出て、植木の様子を見て戻った時のえびす丸。

玄関で正座して、三つ指ついて、私の帰りを待っています(笑)。

勿論、私の帰りが遅くなる時は、ケージに入れるか、リードで繋ぐかして、万が一にも事故の無い様にしています。一度、玄関のドアを鼻で開けて、するっと出てしまった事があるので、玄関には頑強なペット・ゲートをつけました。

人間の出入がちょっと面倒ですが、ことばの話せないワンちゃん、迷子になっては大変。安全第一です。

(胸の紺色のテープは、ハーネスの抜けるのを防止する為、自分で取り付けました。トイプはなで肩で、一度散歩中に、ハーネスが肩から、ツルッと抜けて、えびす丸は、そのまま、山道をトコトコ、結構な速さで登って行くので、見失わないかと、冷や汗をかきました。)

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/

Paññādhika Sayalay 般若精舎>

翻訳(中→日)《実用アビダンマ》(7-11)(私家版)

反対に、もし精進が過剰で、定力が不足である時、「掉挙」が生起する。正念は、精進力が多すぎる時、リラックスしなければならないという事を知っている。こうして初めて、定根と精進根をバランスする事ができる。

正念は(バランスの可否を)知っている為、調整する事ができる。もし、正念がないのであれば、信心(=確信)が強すぎるとか、または、智慧が、ある時点で過剰に強い事が分からない。「偏りがひどい」場合、修行は進歩しない。修行においては、五根がバランスしていなければならない。正念は、ちょうど塩の様であって、調理する時に、塩がないならば、その料理は、味気ないものになる。

故に、仏陀は、どの様に場合においても、正念は必要である、と言うのである。

(7-12につづく)

<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>

 

翻訳(中→日)《実用アビダンマ》(7-10)(私家版)

これらは皆、強くて力のある正念を育成する為の、最も近い原因であり、故に近因と言う。

仏陀は以下の様に言う、どの様な業処においても、正念は必要である、と。

五根をバランスしようとする時、正念は、あなたに、あなたの慧根(の強さ)が、信根を超えている事を知らせる・・・慧根は必ず、信根とバランスしなければならない。

または、定根が精進根を超えて、定力が強すぎる時、精進が不足して、「昏沈」が生じる。

(7-11につづく)

<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>

 

翻訳(中→日)《実用アビダンマ》(7-10)(私家版)

正念の近因は、強くて力のある想または四念処である。

それはすなわち、身念処、受念処、心念処、法念処である。

安般念は「身念処」である(身=呼吸);

楽受、苦受、不苦不楽受を観ずるのを「受念処」という。心の貪欲、瞋恚、痴を観ずるのは「心念処」である。

五塵が五根を衝撃する事によって、生起する煩悩を観ずるか、または五蓋を観ずるのは、「法念処」である。

(7-11につづく)

<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>

 

翻訳(中→日)《実用アビダンマ》(7-8)(私家版)

現起(現象)は、心を守護(保護)する事、または目標に対応している状態である事。安般念の修行を実践する時、正念がある為に、心は守護(保護)されて、五欲の目標に向かって漂い出る事、色、声(音)香、味塵に向かって漂い出る事がない。

正念は、ちょうど、悪人または色々な人間が、入ってこない様に見張っている門の守衛の様であって、それは悪法が入ってこない様に(見張っている様なものである)。

故に、根門を守るという事は、すなわち、正念でもって、業処を守る事を言うのである。

一個の心は、一個の用を足す事しかできず、(一個の心で)色々な事柄を処理する事が出来ないが故に、心が業処を守り、業処に止まっている時、眼、耳、鼻、舌、身は、一時的に閉鎖されている為、煩悩が、眼、耳、鼻、舌、身から入ってくる事がない。

こうした事から、正念でもって心を守護する事は、五根から煩悩が入ってこない様にする事ができる。

(7-9につづく)

<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>

般若の独り言~未練

私が現在、身の回りにある物品に関して、大いに断捨離をしていることは、前に書きました。

捨てるべきものは捨てて、人に差し上げることの出来る物は、差し上げて・・・ここにきて、だいぶ整理がついて来ました。

今は、残っている大量の布地(息子や孫に、何か作ってあげようと思って買い置きしていたものや、私が出家する時に法衣を仕立てようとして買っておいた茶色系の、反物の布地など)は、裂き織用の横糸にする為に、1cm幅に裂いています。

いやはや、毎日、セッセと布地を裂いている訳ですが・・・時々、

<この反物の布地を全部裂いてしまうなんて、もったいないなぁ>

<後々、あれがあれば、カーテンにできたのにとか、後悔しないかなぁ>

などと思いながら、布地を裂いています。

これ、未練、心、いまだ練れず(笑)。

禅宗のお話の中で、小僧さんが町にお使いに行って、文房具店で、よくよく吟味して、和尚さんが喜びそうな便箋を買って、お寺に戻ったけれど、和尚さんは「これはだめだ。今すぐ行って取り替えて来い」と言います。

小僧さんは、夕暮れの山道を、再度、町に向かいながら、帰り道の心細さを想像して、もう走りに走って、お店につくと、そこら辺にあった便箋をひっつかんで、お寺に戻りました。

和尚さんは、その便箋を見て

「よいのが買えた」

と褒めたそうです。

この布地は将来使えるかもしれないと思って、ふと仕事の手が止まる。便箋を吟味して買って帰れば、和尚さんに褒められる。

余計な心の働き、未練でありますね。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/

Paññādhika Sayalay 般若精舎>

 

翻訳(中→日)《実用アビダンマ》(7-7)(私家版)

正念は、瓢箪の様には、水の表面を流れて行ったりしない。正念は、まさに石を水の中に放りこんだ時の様に、心の中に入り込む。この様であって、初めて、非常に強い正念である、と言える。それ故に、正念とは、目標を見失わない事、とも言える。作用は、迷わない事、または目標を見失わない事。この事は、安般念を修行している時、非常に明確、明瞭になる。というのも、ひとたび、目標を見失うと、その時、正念を失うが故に。

(7-8につづく)

<願以此法布施功徳、早日証得涅槃楽>