Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-4)(私家版)

食マンゴー者帝思長老(TheroAmbakhādakaTissa)は、飢饉の時に、もう少し住みやすい場所へと、行脚した。旅の途中に疲労して体も弱り、これ以上動けない程になったので、一本のマンゴーの木の下で横になった。。。。           その時、多くの熟したマンゴーが、木から落ちて来た。しかし、与えられないで自分で手に取って食するのは(巴吉帝亜)罪となる為、長老は生命への貪愛を放棄して、飢えを我慢した。。。。。。。         

一人の年老いた在家者が、昏倒している長老を見つけて、マンゴージュースを作って供養した。長老に暫く休んで貰い、その後に、住まいに戻る為に、長老を背負って歩き出した。。。。。。             長老は、彼の善心に深く感動して、観禅を修行し、一切の漏を断じ、信徒の背中に背負われながら、阿羅漢を証したのである。比丘達は、以下の高尚で、聖清な省思を常に思い起こすべし:             “Dhanam caje yo pana angahetu. Angam caje jīvitam rakkhamāno, Angam dhanam jīvitañcāpi sabham, caje naro dhammamanussaranto.“          “ 肢体を保つ為に財産を捨てる事が出来る。生命を保つ為に肢体を捨てる事が出来る。法を念ずる者はこれら一切を捨てる事が出来る(財産、身体、生命)“。。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-3)(私家版)

【戒を守って死んだ比丘】       昔、インドの大道叢林(Mahāvattani)の中に、一群の強盗がいた。彼らは、一人の長老比丘を捕まえて、藤の蔓で縛った。。。    強盗達は、彼らが森林の中に住んでいるのを他人に知られたくなかったので、長老を解放しなかった。。。。。            長老は、本来なら藤蔓を切って逃げる事が出来たが、藤蔓を切るのは罪(巴吉帝亜)になる為、長老は敢えて自らを救う事をしなかった。長老は強盗によって藤蔓で縛られたまま土の上に横たわり、生きる事を諦め、7日間観禅を修して、不還果を証し、死後、梵天に生まれた。。。。          ランカ島(スリランカ)に、同じく羅勒蔓(ローレイマン〜注1)に捕まった長老がいた。この時、突然、森林火災が起きた。彼は本来なら縄を断ち切って逃げる事が出来たが、生きるより戒を守る事の方が重要であると省思して、その様にはしなかった。長老は禅の修行に入り、烈火燃え盛る中で亡くなった。死ぬ時、すでに阿羅漢であった。その後、500人の比丘を連れた長部誦者無畏長老(Thero Dīghabhānaka Abhaya)が発見して、かつ、本人であると認定し、火葬して後、塔を建て、その舎利を供養した。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-2)(私家版)

仏陀を敬い、又人に愛される人間はヤクが尻尾を守り、母鳥が卵を守り、母親が独り子を守るが如くに、善く戒律を守らなければならない。“                 総じて、戒子は上にある偈頌の如くに戒律を持守する事に関して、始終策励し気づき省みなければならない。。。。。。。。。。。。                  “Pātimokham visodhento appeva jīvitam jahe, Paññattam lokanāthena na bhinde sīlasanvaram.“                  “比丘は、不惜生命にてパーティモッカを持守し、仏の制定した戒に違反してばならない。“                  生があれば必定死があり、これからは逃げる事が出来ない。戒を守る事によって死ぬ事は、泰山より重いのであり、来世は必ず善趣に生まれるに違いない。故に、多くの持戒者は、生命を代価として差し出し、最後には阿羅漢を証し、結果、死から遠く離れるのである。。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(43-1)(私家版)

【如何にして戒を守るか】         善男子は、父母、兄弟姉妹、眷属を遠く離れ、財産と諸々の持ち物を捨て、家を離れて非家者になるが、これはひとえに生死輪廻から解脱する為である。。  彼らは、始終戒徳を守ることに尽力しなければならない。まさに以下の偈頌の述べるが如くに:                             “Kikīva andam, camarīvavā ladhim, Piyamva puttam, nayanamva ekakam. Tatheva sīlam, anurakkhamānā, Supesalā hotha sadā sagāravā.“

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(42-6)(私家版)

【活命遍浄戒】                   比丘が在家者の歓心を買い、在家者に資具の供養を強要する事は、仏陀が厳格に叱責した行為である。上記の行為から遠く離れて、乞食をして生活する事。これを“活命遍浄戒“と言う。比丘は在家者の歓心を買う為に物品を贈ったり、在家者の為に病気の治療をしたり、星占いをしたり、面相、手相を見たり、吉日選びをしたり、玄術を弄したり、就職の世話をしたりしてはならない。比丘は、走り出て在家者を迎えたり、その後を歩いたり、在家者に忠誠心を表す為に追従したり、背面服從したり、過度に遠慮したり、話は真贋半々であったり、信徒の子供を弄んだり、在家者のする遊びをしたり、走り使いをしたり、己の!品徳を誇張したり、己の本来具えない所の徳を吹聴したり、更に多くを得るために供養を婉曲に断る、などをしてはならない。以上の行為は、全て邪命であることを知っていなければならない。。。。。。。。。。。。。              【資具依止戒】             資具依止戒とは比丘が托鉢等の方式で、如法に資具を得る事を言う。資具を受用する時、それを元素であるとか不浄であるとか省思する事。省思の方法はすでに述べた。。。。。。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(42-5)(私家版)(90/250)

人々が、これは頬、これは唇、これは歯、これは目、これは手、足、胸等と認める事柄は、概念化された認知に属するものである。異なる身体部分を定義する事、又はその美醜、良し悪しを定義する事は、皆、貪着か又は排斥を誘発する。。。         かつて、アヌラーダプラに住んでいた女性が、夫と喧嘩して家を出た。道々、彼女は Mahā Tissa Thera が歩いているのに出会い、わざと大声で笑った。長老は彼女の歯に注目し、歯を目標にして白骨観を修した。。。。                 夫が妻を探しに来て、長老に出会い、女性が一人ここを通らなかったかどうか尋ねた。長老は、自分は男性か女性か注意を払わなかったが、しかし、一体の白骨がそこを通った、と回答した。。。          長老は、厳格に根律儀を守った為、女性を女性と見做す事がなかったのである。。   比丘は、テイッサ大長老の如くに厳格に根律儀を守らなければならない。。      比丘が厳格に根律儀を守るのは、非常に困難である。しかし、もし、根律儀を善く防ぎ守る事ができるならば、その他の戒条もまた円満に守る事ができる。。。       諸々の根を収め守る事は、沙門の品行を向上させる事ができる。比丘はこの戒をしっかりと守らなければならない。

★『教海覚舟』〈教えの海悟りの舟〉(42-4)(私家版)

色法が眼門を衝撃する時、比丘は、当該の色法を所縁とのみ見做して、分析を加えない様にする。こうすれば、不善心は生起しないし、心は雑染から遠く離れる事ができる。しかし、色法等の所縁か出現した時、心は概念を掴み、取り、微細な分析を加え、結果、雑染がたちまち生起する。眼門の所縁がひとたび出現したならば、比丘はそれを、年若い男性、年若い女性、年老いた男性、年老いた女性、美人、醜い人、敵か友かを認知するが、この時、概念を掴んでいるのである。執着(の対象)を、善、美であるも見做し、排斥(の対象)を醜いものと見做す。こな様な顛倒した認知は錯誤である。。