色法が眼門を衝撃する時、比丘は、当該の色法を所縁とのみ見做して、分析を加えない様にする。こうすれば、不善心は生起しないし、心は雑染から遠く離れる事ができる。しかし、色法等の所縁か出現した時、心は概念を掴み、取り、微細な分析を加え、結果、雑染がたちまち生起する。眼門の所縁がひとたび出現したならば、比丘はそれを、年若い男性、年若い女性、年老いた男性、年老いた女性、美人、醜い人、敵か友かを認知するが、この時、概念を掴んでいるのである。執着(の対象)を、善、美であるも見做し、排斥(の対象)を醜いものと見做す。こな様な顛倒した認知は錯誤である。。