去年の今頃入院して手術した大腸の病気が、再発していないかどうか、再確認が必要という事で、先日、内視鏡検査がありました。
担当医は「ご自宅の近くのA病院でもいいですよ」と言ってくださったのですが、私が、施設の整っている、手術を担当してくれた主治医のいる大学病院がいいという事で、朝早くから大学病院に出向きました。
内視鏡検査には、大量の下剤を飲まねばならず、みなさんこれが嫌で、内視鏡検査を躊躇するのですが、その日は、私を含めて合計4名が、小さな待合室みたいな所で一緒に下剤を飲む事に。
そこに、たまたま、大変なおしゃべりなおばさんが1名、その人に負けていない私目が1名、知的な雰囲気のおばさんと紳士とが一か所に集まった訳ですが・・・。私の坊主頭をみて、ちょっと宗教談義みたいな事になってしまって・・・、輪廻はあるのかないのか?という話題に。
2500年前、やはりこういう質問をする人がいて、ゴータマ仏陀は、質問者に返事をしなかったと言われています(無記といいます)。
私は自分の経験に基づいて、こういいました。
今、私が<輪廻はある>と言ってもあなた方は信じないでしょう。あなた方が、こういう質問をしてくるという事自体、日常生活、または非日常生活の中で、輪廻を確認した事がないと独白している訳で、今<ある>と言われても、即座に信じられるわけがない。「信じる」と言えば、自分を欺く事になります。
しかし、私が<ない>といえば「では、死んだらどうなるの?」「幽霊って何?」「なぜ追善供養するの?」とか、色々質問してくるでしょう。ただ、猜疑心一杯でそういう話を聞けば、どのような説明をしても納得しないでしょう。
私が<ある>と言っても、<ない>と言っても、聞いている人の、心の中の疑問は、一歩も進展しないのですね。
仏陀がそのような質問に返事をしなかった事がお経に記されていて、その為、輪廻はないのだ、という人がいるけれども、輪廻が無いのであれば、<無い>と答えたはず。
なぜ仏陀は<輪廻があるかどうかの質問は、返答するに値しない>と思ったのか?
そこが盲点であり、答えのヒントでもあります。