仏教が好きな人の中で、仏陀の説いた<無我>について、
延々と議論している人がいる。
無我を文字通り<私はいない>と理解して、私は<いるか>
<いないか>を延々と議論している(注1)。
議論はやめて、修行したら分かる事を、延々と議論して
いるから不思議でしょうがない。
先日、タイの東北にあるスカトー寺の副住職をされている
プラユキ師の本を読んでいたら<仏教は自我を虐めすぎる>
と書いてあった。
そう、無我説に囚われて、自我があってはいけないような
罪悪感に囚われている仏教徒は、多い。
しかし、無我というのは、<私はいない>という意味で
はない。
我々人間の人生をコントロールしているという考えがあって、
それをゴータマ仏陀は「いや、人間は神様が作ったものでなく、
故に、自分の人生は自分でコントロールできる」と宣言(注2)
した(それを担保するのが、<無常>である)。
人間をコントロールしている訳ではないという意味で、訳文上に
<無(大)我>という言葉が登場した、という背景を理解して
おかねばならない。
自我は、まずは確立されなければならない。
そして、その自我は、実は虚構である事を(修行を通して)見抜け
ばよい。虚構であっても、生きていくには、役にたつ(いや、ない
と困る)。
銀幕に映る映画は、実際にそこで生身の人間が動いている訳ではない、
という意味では虚構だが、映画自体は、ちょっとした暇つぶしに
もなるし、啓蒙的な映画なら、結構な知識を得られる事もある。
無我を「私はいない」などと言う間違った文脈で解釈せず、
自我をしっかり確立して、そしてその自我を、所詮は虚構で
あると看破して、融通無碍に使って生きる。
それがゴータマ仏陀の無我だと、私は思う。
(注1)仏陀は「心と身体は自分のものではない」「どんなに
頑張ってみても、心と身体の中に<私>を見つける事はでき
なかった」と言ったが、私はいない、とは言っていない。
私がいるか・いないかは、無記である。
(注2)故に、仏教では神に犠牲を捧げる祭祀はしない。
仏教は<人間主権>主義だ。