ですが、我が家には仏壇はありません。
先祖の位牌を持っていませんし、先祖への感謝は心の中ですればよい、
と思っています(私は、特別先祖が尊いというより、生死輪廻して
いる命は、皆平等という考えです)。
神々には礼拝しません(ガネーシャの像は持っています。
ガネーシャは、ユーモラスで可愛いです)。
仏像は、2尊持っています。
一つは、タイの森林寺院で修行している時に、当時の住職
さんが下さったもので、緬甸製。もう一つは、去年台湾で
修行した時に、お寺から修行者への布施という形で、
頂いてきたものです(これも緬甸製ですが、こちらの方が
ハンサム。前者は大理石の彫刻で、田舎のおじさんが
彫ったような、素朴タイプ)。
仏壇がないので、この2尊は、薪ストーブの上に飾っています。
今日、グラジオラスを5本、花瓶に入れて、仏像の側に置きましたら、
逆L字形になった一本が、ちょうど天蓋のように仏像に掛りました。
それはまた、仏陀が悟った後、禅定に入った7日間、雨から彼を
守り続けたコブラのようでもあります。
私たちが仏像に礼拝するのは、偶像崇拝ではありません。
般涅槃に入った仏陀が、礼拝すれば、何かしてくれる、とは思って
いないからです。
ただ、彼の教えた法は、我々の、混乱する日常を整え、行く道を
指し示してくれる、という感謝の気持ちで、礼拝します。
話は変わりますが、大日如来は、宇宙の理法を表していますが、
問う人がいます。
<如来>の意味がよく分かっていない上に、宇宙の理法も、
仏陀(の法)も、人物像にして、可視化してしまったのが、
誤解の元なのでしょう。
私も、長い間、神様は、白いひげを生やし、右手に杖を
持ったおじいさんだと思っていたので、人のことはいえ
ませんが・・・(笑)。
宇宙原理は受肉した人間の知る所ではない、という思想を
徹底して守っているという訳ですね(イスラム世界で見られる、
あの幾何学模様は、限界のある人間が表せる宇宙原理の内の、
最も美しいもの、なのでしょう)。
(追補:厳密にいうと、聖の預流果になるまでは、本当には
仏法は理解できず、故に仏教徒とは言えず、凡夫は<信者>と
呼ぶそうです ← タイで聞いた話)。
閑話休題。