Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~無我と真我

今、私は、タイのブッダダーサ尊者(遷化)の「無我」という本を翻訳して、ブログに載せている(パオ・セヤドーの「菩提資糧」も同時進行なので、頭の中が、時々混乱するが)。

私の理解では、仏陀ご在世の時代、インドはすでに四姓差別の制度が強固になっており、その中で支配者層は被支配者層、特にシュードラと不可触賎民に「君たちは、我々貴族にように、磨けば輝く魂~真我を持っていない」「故に解脱は望めず、永遠に輪廻する」「君たちは永遠に輪廻し続け、何度生まれ変わっても、しょせんは、貴族に奉仕する存在だ」と脅していた。

<磨けば輝く魂>も、本来は、人の心のありようを示す、一つの譬えであったのが、いつの間にか社会的に最下層の人々を脅す手段になってしまっていたのである。

そんな時代背景の中仏陀が真っ向から「無我」を引っ提げて、それに反対した。

仏陀は、<磨けば輝く魂>も、よくよく観察してみれば、ダイヤモンドのように固いものではなく、それは握りしめられるものではなく、心の至高の様相とは、無我(エゴがない事)であり、空(ニュートラルであること)なのであって、その心の至高の様相~無我は、社会的な帰属や地位に関係なく、万人に認められるものだ、と宣言した。

当時の(現代も、その差別の様相は、旧態依然なのだそうだが)、人格も存在自体をも否定され、社会的に最下層にいた人々は「仏陀の無我」を聞いて、福音だと感じ入り、感涙したのではないだろうか?

当時の社会的背景を理解すると、「無我」を引っ提げ登壇し、宣揚した仏陀の偉大さが、さらに身に染みる。

追補:無我か真我か、言葉の上だけで論争するのは、むなしい(誰かが誰かを言い負かしたとて、それもまた心のエゴであり、妄想であるから)。バラモン教(現代のヒンズー教)もまた、歴史の中で、改革を強いられて、真我を、<エゴのない心の至高の状態><それは万人の心の内に認められる>と定義し直している面がある。

それが故に、仏教バラモン教に吸収される原因にもなったわけである。

言葉で真理は言い表せない。無我と言い、真我と言っても、それはしょせん言葉、月指す指。指に見とれていないで、月を見よう、イヤ、月を体験しよう。