ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー14
ここで討論する「自我」と「無我」は、
前のページで述べた第三番目、すなわち、
哲学的な問題に相当し、また、一部分に
おいては、第四番目の神秘体験に属する。
それが哲学的な問題だというのは、それが
純理論に属するがゆえであり、人類と動物
は虚妄であり、真実の「自我」というのは
ないと言い、かつ、事物は自然に、
その他の事物から組成されている、
と言っている。
それ(=哲学)は、我々に、これらの実体を
どのようにして分析するのかを教えてくれ、
それ(=事物、物質)を最も小さい組成分子
に還元し、この組成分子がすべての事物を
構成していると言い、それは、事物が
どこからやってきて、どのように成長し、
どのように変化し、そして、なぜこのように
変化するのかを、教えてくれる。
それは、第四番目の神秘体験と関係がある。
というのも、それの重要性、すなわち、
「無我」の意味が涅槃ーー一種の永恒、
平静と安楽の境地を含むからである。
この種の境地は、すべての宗教の共通の
目標ではあるが、しかし、各々(+の主張)
に差異がある。
ある種の宗教は、「自我」を擁すること
自体が、永恒で安楽な状態であり、
その「自我」とは「大我」であり、
「世界的な自我」であり、「上帝
(=天帝またはキリストの神、ヤーウェ)
の自我」である、という。
しかし、仏教はすべての、この種の「自我」
を否定して、これらのものは存在は
するけれども、しかし、それらは「自我」
ではない、という。
というのも、それらの何種類かは幻影であり、
その他の、幻影でないものも、ただ「法」
または「自然」でしか過ぎないもので
あるから(+だと言う)。
それらは、執着されるべきものではなく、
また、「自我」と誤認されるべきでない。
というのも、それらは、我々の心智に
絡みついて、微細に、知らず知らずの
うちに、我々を苦しめ、我々をして永遠に
それに執着するように仕向けるから。
以上が、「無我」の理論が、いかに精密で
奥深いか、それが如何に重要か、そして、
なぜそれが、仏教の核心的教義になって
いるのか、という説明である。
もし、我々に「無我」を透視する能力が
あったならば、広範に、かつ徹底的に、
事物の真理を見極めることができる。
それが色彩を帯びるものであっても、
無形のもの、世俗のもの、または世俗を
超越したものであっても、我々は、
世間には、尋常でないもの(=不思議な
事物)など存在しないことが明白になり、
世事に執着する必要も、(+必要以上に)
夢中になる必要もないことがわかる。
我々は、どのような事物からも、その
影響を受けて、右往左往する必要は
ないのである。
言いかえれば、もし、我々の目的が、
精神の指標になるものがないかどうか、
探しているのであれば、かつそれが、
我々を真正の解脱へと導いてくれる
哲学的概念であればよいのにと願って
いるのであれば、我々は、「無我」の
哲学を発見することになるであろう。
まさに、この精神的指標が、我々をして
完全なる解脱の目標に到達させてくれる
のである。
本書の最後には、「無我」の哲学は如何
にして人々を解脱させえるのか、
を説明するが、その前に、私は「無我」
とは何か?の説明をしなければならない。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>