ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー39★
P.Carus が、彼の著書《仏陀伝》
(Biography of the Buddha)の中で、
仏陀は、仏になる前、多くの苦行者と
弁論した、と書いている。
(+その趣旨は以下の通り)。
≪衆生は、我執を取り除いていないが故に、
束縛を受ける。
一人の人間の観念の中で、一つの物体と
それに内在する性質は、別々のものだと
思われている。たとえば、一般の人々は、
「熱」と「火」は異なるものだと考えるが、
実際は、我々は、「熱」を「火」から
分離させることはできない。
今、あなたが、物体とその性質を分離させて、
物体がまったく何等の性質を持たずに、
ただそれだけで、単独で存在できると言う。
もし、あなたが、この理論を完全に正しい
と考えるならば、少し後になって、事実は、
あなたが理解したようではない、または
あなたが堅持しているようなものではない、
ということが発見される。
我々は、智者が言う所の、これらの「蘊」等、
異なる元素の組み合わせで出来上がって
いるのではなかったか?
我々は、色、受、想、行及び識という五蘊
によって成り立っていて、これらの「蘊」が
共同して「我々」を成り立たせている。
我々が「我々はこういうものである」または
「我々はああいうものである」と言うとき、
やはりこれらの集合体を指しているので
あり、「我々」とは、これらの集合体で
出来上がっているのである。
いわゆる「自我」とは、ただ単に我々の
考え方に過ぎない。
単独に、ただそれだけで個体が存在して
いると信じているすべての人々は、物事に
対して、正確な見方ができていない
(+と言える)。
「自我」を熱狂的に探し求めるのは間違い
である。それは間違った目標であり、
起点でもある。
というのも、それらは、真実の事実に
基づいてはおらず、ただあなたを間違った
道へと導くだけである。
・・・あなたの「自我」という理念は、
理論と真実の間にあるもので、故に、
あなたは真理を見つけることができない。
ただこの概念を放棄したときにだけ、
如実に事物の本来の面目を見る事が
できる。・・・
・・・さらに一歩進んで述べるならば、
もしあなたが、己はすでに解脱に到達した
と自認したとしても、あなたの「自我」は
依然としてそこにあり、その上、それで
もって、自己の個体を覚知しているのならば、
真正の解脱には、どうやって到達すれば
よいのであろうか?・・・≫
前述の、二人の苦行者が浄化した個体
(=個人)と、苦痛を取り除いた境地を
もって「自我」とするのは、苦痛から
解脱したいと願う人々が探し求める
目標である。
この二人の苦行者の観点を紹介した後、
私は、他の何人かの類似した観念を
紹介しようと考えていたが、
重複を避けるために、今は話すのを
控えることにする。
しかし、私は、もう一つ別の観念について
説明したいと思う。
これは最後の一種類で、《奥義書》の
ヴェーダンタ哲学思想である。
仏陀の時代における、この教派の実際の
状況について、仏典では特に記載は
されていないけれど、しかし、歴史的観点
から言えば、それは仏陀の以前からすでに
存在していたと、推測することができる。
私は、何人かのヴェーダンタ哲学の学者に、
関連する思想についての観点を学んだが、
彼らは私に親切丁寧に説明をしてくれた。
私も、この方面の学説と書籍を閲読した。
私の知るところによると、ヴェーダンタ哲学
の観点は、おおむね以下の通りである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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訳者コメント:(1)ヴェーダンタは、
また、ヴェーダーンタとも表記されますが、
今回は、初出の通り、ヴェーダンタで
統一します。
(2)原文中に出てくる「自我」は、
日本の方には「真我」と訳した方が
よいかと思われる場合も散見しますが、
タイ語から中国語へ翻訳した翻訳グループ
が「自我」で通しているので、私も
「自我」で統一し、必要に応じて
<(ママ)>を付加します。
ご了解下さい。
(3)下線は訳者。ヴェーダンタについて、
仏典で記載がない?って。初めて知りました、
私、仏典すべてを学んだわけではない
ので・・・う~~ん、なぜでしょうか?
既に存在した教派なら、なんらか言及して
いてもよさそうですが。謎。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>