ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー22
故に、我執は、人々の最も根深い本質、
抜き差しならない本性と化し、かつ、
人々の心・身を主宰(=コントロール)し、
心・身は、「自我」の思考と感覚の統御を
受けることとなった。
このことは、なぜ、心霊が自然に事物を
感じ取れるのか、という疑問の回答でもあり、
それはすべて有為法の範囲であり、
(+人々は)これまで一度も「幕の後ろ」
にある無為法について、探求したことがない。
これは、また、無為法の話が、なぜ人々に
とって、理解しがたいものになるのか、
という答えでもあり、心・身は「自我」では
ないという言い方が、人々が受け入れられる
のも、前述の通り、人々は、事の半分しか
理解できていないから、でもある。
このことから、我々は以下の事を知ることが
できる。
仏陀は、いかなる事物の中にも「自我」は
ないと言ったけれども、しかし、彼は決して
功徳や罪悪の存在を否定しなかった。
功徳や罪悪などは、ただ心・身のみに
よって組成されている個体が行った行為に
すぎず、肉体的な個体に関して言えば、
それらの活動は、ただの反作用にすぎず、
(+本来は)功徳や罪悪などというものは、
ない。
肉体と心霊が「自我」ではない事から、
功徳や罪悪も、またそれらと同様に、
「自我」はない。
もし、我々が、肉体と心霊に「自我」がない
ことを理解したならば、それらの功徳または
罪悪もまた、「自我」ではないことが、
即刻、了解される。
生、老、病、死、徳の修習、犯罪、善行、
悪をなす事などは、皆「無我」である
ことを、しっかりと、覚えておいて
いただきたい。
一人の人間が、「幕の後ろ」のものに
ついて、全くの無知であって、ただ
「幕の前」のものについてしか知らない時、
彼は己を、「自我」を有する人であると
見做す。
彼は罪悪を恐れ、功徳を修しようと欲するが、
このことを通して、彼の「自我」
(かれが執着しているもの)に幸福、
安楽と快適さを齎そうとするのでる。
このことは、(+人々にとって)一つの
避けられない事実であるが、それは、
ちょうど一人の人間が、自己を「自我」と
みなさないではいられないのと同類の
(+精神的構造、出来事)なのである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>