南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー22

故に、我執は、人々の最も根深い本質、

抜き差しならない本性と化し、かつ、

人々の心・身を主宰(=コントロール)し、

心・身は、「自我」の思考と感覚の統御を

受けることとなった。

このことは、なぜ、心霊が自然に事物を

感じ取れるのか、という疑問の回答でもあり、

れはすべて有為法の範囲であり、

(+人々は)これまで一度も「幕の後ろ」

にある無為法について、探求したことがない。

これは、また、無為法の話が、なぜ人々に

とって、理解しがたいものになるのか、

という答えでもあり、心・身は「自我」では

ないという言い方が、人々が受け入れられる

のも、前述の通り、人々は、事の半分しか

理解できていないから、でもある。

このことから、我々は以下の事を知ることが

できる。

仏陀は、いかなる事物の中にも「自我」は

ないと言ったけれども、しかし、彼は決して

功徳や罪悪の存在を否定しなかった。

功徳や罪悪などは、ただ心・身のみに

よって組成されている個体が行った行為に

すぎず、肉体的な個体に関して言えば、

それらの活動は、ただの反作用にすぎず、

(+本来は)功徳や罪悪などというものは、

ない。

肉体と心霊が「自我」ではない事から、

功徳や罪悪も、またそれらと同様に、

「自我」はない。

もし、我々が、肉体と心霊に「自我」がない

ことを理解したならば、それらの功徳または

罪悪もまた、「自我」ではないことが、

即刻、了解される。

生、老、病、死、徳の修習、犯罪、善行、

悪をなす事などは、皆「無我」である

ことを、しっかりと、覚えておいて

いただきたい。

一人の人間が、「幕の後ろ」のものに

ついて、全くの無知であって、ただ

「幕の前」のものについてしか知らない時、

彼は己を、「自我」を有する人であると

見做す。

彼は罪悪を恐れ、功徳を修しようと欲するが、

このことを通して、彼の「自我」

(かれが執着しているもの)に幸福、

安楽と快適さを齎そうとするのでる。

このことは、(+人々にとって)一つの

避けられない事実であるが、それは、

ちょうど一人の人間が、自己を「自我」と

みなさないではいられないのと同類の

(+精神的構造、出来事)なのである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>