パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)~176-3
この時、彼の先生は、自分がいまだ一人の凡夫であることに気が付いた。彼は謙虚に法施阿羅漢に助けを求めた。
法施阿羅漢曰く:
「尊者、心配しないで。私はまさにあなたを手助けしに来たのです」
こうして、彼は先生のために、一種の業処を詳しく説明し、大長老はこの業処を受取り、その後に、歩く瞑想を実践する為に、瞑想用の小道に行こうとして、三歩歩いたところで、阿羅漢果を証悟した。
《中部Majjhima Nikāya》の注釈に、一つの物語がある:
ある一人の年老いてから出家した比丘がいて、彼の戒師は、すでに阿羅漢果を証した年若い比丘で、彼はこの戒師と共にいたが、しかし、彼は、戒師が阿羅漢であるということを知らなかった。
ある日、彼らが托鉢に行く途中、彼は戒師に言った:
「尊者、阿羅漢とはどんな風貌なのですか?」
戒師は答える:
「この判別は難しいのです。年老いて出家した比丘がいて、阿羅漢と一緒にいるのですが、相手が阿羅漢だとは知らないでいます。」
戒師は暗示を与えたのですが、彼は尚、この年若い戒師が阿羅漢だということが分からない。このように、誰が阿羅漢であるかを判別するのは、難しいことなのである。
一人の真正なる聖者は、欲が少なく、足るを知り、また謙虚である。そして、自己の証悟(+の内容)を漏らすことは、決してしない。
もし、この聖者が比丘であるか、比丘尼であれば、仏陀の制定した戒律により、彼(または彼女)は、決していまだ具足戒を受けていない人~すなわち、沙弥、沙弥尼と在家居士であるが~に己の証悟(+の内容)を説明することはない。
また、大龍大長老の物語から、一人の人間の証悟の内容を確定するのは、非常に難しいものであることが分かる。
であるから、最も良いのは、己の修行の成果を人に告げない事だ。
もう一つ、考えておかねばならないのは、ある種の人々はあなたを信用するかもしれないが、ある種の人々はあなたを信用しないかも知れない、という事である。
あなたが本当に道・果を証悟したとして、あなたを信じない人は、重大なる悪業を造ることになるが、このことは、後々、彼らに大きな傷害を齎すことになる。
故に、聖道を証悟したという情報は、ある種の人々の仏法に対する信心(=確信、信頼)を呼び起こすかもしれないけれども、しかし、やはり、己の修行の成果は、全く露しないのが、良い。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(問2-3につづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>