Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「修心与神通」(翻訳文)~7-2★

仏陀は我々の定の修習のために、無量無辺なる法門を教えてくれた。だた、何も、この法門があの法門よりいいとか悪いとか、レベルが高いとか低いとか、速いとか遅いとか、ではない。

というのも、衆生にはいろいろな性があり、種々の欲があり、それぞれ、何を修行するのが適しているのか?どの法で修行すると成功するのか?

それはすべて、各々の器根と性向、及び宿業の福徳の累積によるもので、どの法が適しており、どの法門を修行するかは、その人の感応と共鳴によって選択される。

もし、ある人が、地蔵王菩薩の悲心に共鳴して相応するならば、または、観世音の慈悲と相応するならば、その時は、観音の法門を修行すれば、機に応じることができる。

仏陀の8万8千の法門は、どれもが最もよい法門であるし、皆それぞれ平等であり、分別して比較するものでは、ない。

しかし、一般の人々は、「法執(=法への執着)と我見(=私の意見)」を放棄することができないため、常に、私の僧団が大きく、人も多く、そして、それゆえに己の宗門が最もよいのだと思う。

または、唸仏、唸呪が簡単で(+進歩が)速く、最もよいのだ、などという。それはまるで、インスタント・ラーメンを食するようで、実際は、そのような観念を持つことは、皆障礙であり、間違いであり、あなたの道体の成就の妨害になるものである。

また、現在は禅七が流行で、自分勝手に、禅宗を修行する者は上根智者であるなどと思いなして、蜂の巣をつついた様に、大騒ぎで流行を追い、ヘリコプターに乗って、雲の上まで昇りたい、などというが、それもまた偏見であり、あなたの道の障礙になる。

いわゆる「一行一切行、一通一切通;一切行一行、一切通一通、非一非二」とは、この道理を言うのである。

もし、一門に深く入ることができれば、すなわち、門門入矣(=どれもこれもOK)である。

しかし、先決条件として「見地」が十分に足りていなければならない!

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)

訳者コメント:中国語の仏教書を翻訳してると、<念>仏と<唸>仏が出てくる。念仏とは、仏陀の徳を思うことであり、唸仏とは、仏の号を声を出して、または心の中で黙読することである。日本ではネンブツというと、すべて念仏一色になるが、中国語では、<nian fo>には二種類あって、念仏と唸仏は異なる概念である。

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<陳居士「修心与神通」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>