以前、当ブログに<怒らない事>について書きましたが、今回は<考えない事>について・・・。
クムダ・セヤドーが指導される、大阪の瞑想会に行ってきました。若い人も大勢参加されていて・・・ある人から以下のような質問がありました。
「瞑想する時、考え事をしてはいけない、と言われますけれど、日常生活でも、考えない方がよいのでしょうか?」
私「考える、考えない、という事柄は、三つの場面、文脈に分けて考察すると、分かり易いです。」
「一番目は日常生活ですが、日常生活においては、色々、考える必要があるのではないですか?
今している仕事と収入は見合っているか(ブラック企業ではないか)?
収入に見合った生活をするには、どうしたらいいか?
結婚していて、子供がいれば、妻や子を愛するとはどういう事か?
その他色々、日常生活において、あれこれ考えないで、諸々の問題を、解決できますか?」
「ただし、考えない、考えないからこそ、よいアイデアが浮かぶ、快刀乱麻に問題が解決する、ということはあります。
これが、二番目です。
アインシュタインは、時間と空間の関係を、考えた結果ではなくて、ひらめきで知りましたが、その後に、色々、数式を考えました。
数式は彼にとって、考える手立てではなく、彼の発見した真理を、他人に納得してもらう為のものでした」
「詩人は、詩文を考えて書くのではなくて、最初から心に持っているものが、発現するのではないでしょうか?(考えて書いた詩は、説明調で、つまらないものが多い)」
「我々は本来誰でも、元々、心に知恵を擁していて、この知恵は、<考えない事>によって発現しますが、ほとんどの人が、心のこの機能に蓋をしてしまっていて、使えていないようです。」
「三番目は、瞑想中の心の構えについて、です。
瞑想をしている時は、色々な考え、妄想が出ない方がよいです。
ゴータマ仏陀の発見した真理~無常(刹那生滅)・苦(存在における円満性の欠如)・無我(縁起)は、非常に微細な現象であるため、それを如実に知見するためには、気づきの力を高める必要があり、瞑想中は、雑念や妄想の出ない心理状態を、維持するのが理想です。」
「しかし、瞑想から出てきたら、我々は当たり前の日常生活を送らねばなりません。当たり前の日常生活とは、常識のある、よき考えにもとづいた生活の事です。」
瞑想の先生に「考えるな」と言われたら、本当に思考が停止してしまって、《100%人生丸投げイエス・マン》になった・・・その教団の悲劇は、みなさまの記憶に新しいのではないでしょうか?
追記:瞑想して、雑念・妄想のない心理状態を体験したならば、それを日常生活でも応用できますが(正念正知)、しかしそれでも、日常生活において、考えるべき事柄は考えるべきであって、<考えない事、イコール、悟りだ>というスタンスは、如何なものかと思います。