Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~仏教の原点

私は子供の時から仏教が好きで、随分早くから、仏典を手当り次第、読んでいました。

その頃は、仏典と言えば大乗仏典の事で、中村元先生の原始仏教系の経典は、まだ世に出ていなかったと思います。

ただ、不思議なことに大乗経典を読みながら、子供心に「ゴータマ仏陀ってこんなこと言うかしらん?」という疑問が、フツフツと胸に湧きおこることでした。

長じて、大乗仏教は、仏陀涅槃 500 年後に出てきた思想で、仏陀の肉声(金口)は、ダンマパダやスッタ・ニパータの中の一部分にしか残されていない、という事がだんだんにわかってきました。

そんな訳で、青年の頃は、一時、大乗仏教を否定していた私ですが、最近は、そうでもないです。

例えば、南無阿弥陀仏の念仏ですが、タイのアーチャン・チャー(遷化)は、初心者が集中力を育成するのに、「ブッドー(仏陀)」「ブッドー」と唱えなさい、と教えていました。

集中力を養うための呪文(?)として、「南無阿弥陀仏」がだめで、「ブッドー」なら良いと言う理屈は成り立たない訳で・・・(ただ、南無阿弥陀仏は、アミターバ、すなわち、無量光、無量に尊い光、という概念が成立した地域で生まれた呪文で、ゴータマ仏陀の時代にはなかった概念なのでしょう。)

日本の仏教界の問題は、それら宗派ごとの修行方法の差異の問題より、戒・律が守られていないことにあると、私は思っています(勿論、戒律が守られれば、修行方法はなんでもよい、という事になる訳でもありませんが。修行方法と仏法の理念は、一枚の紙の表裏をなすからです)。

日本のある宗派の僧侶から「私たちは、先に、227条の小乗戒を受けて出家し、その後、小乗戒を捨てて大乗戒を受け、次に大乗戒も捨てて、在家に戻っている。故に、結婚しようが、蓄財しようが、なんでもOKだ」という説明を、聞いた事が有ります。

在家で仏法を実践し、説法もできる人がいたら、それは大変に結構なことですが、在家なのに法服を着て、お寺に住んで、結婚して、お布施もちゃっかり頂戴して・・・ということ、これを仏教の重篤な変質と言わないで、何と言ったらいいのでしょうか?

日本のお寺さんが、国民の信頼から遠く離れているのは、修行方法よりも、僧侶の振る舞いが、ゴータマ仏陀の説いたものから遠く離れているから、ではないでしょうか?