Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-15

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

達頌がアチャン・サオを送り出した頃、アチャン・マンの伝奇と業績は、ちょうど人に知られつつあり、彼の名声は、人々の噂となって、タイ東北部にも、伝わって来ていた。

アチャン・マンは、真正の行脚僧で、その年の安居のために選んだ場所に、安居の期間が終わっても、そのまま居続けるという事は、なかった。

雨季が終わると、彼は即刻、弟子たちと共に、東北部の大荒野の中に、何の躊躇もなく、自由気ままに遊行に出かけたが、それはまるで小鳥が、風に乗って軽々と飛び、天高く舞い上がり、興に赴いて木々に止まり、湖や沢に降り立ち、その後には又、翼を広げて、天高く舞い上がるようなもので、縁に従って至る所に、逍遥した。

これこそ、頭陀僧の淡泊洒脱なる、振る舞いであった。

1917年、雨季がもうすぐやってこようとしている頃、アチャン・マンと、60人の僧侶たちが、北方から、この村の近くの森林山麓に徒歩で到着し、各自各々は、木の下、洞穴、がけ下、墓場などに、行脚傘を広げて屋根とし、そこに住み着いた。

一時の住居と決めたこの場所から、下を見下ろすと、卉晒村が望めた。

アチャン・サオが、卉晒村において、処女地を開拓するような布教を進めておいたので、アチャン・マンの到来は、一大センセーショナルを巻き起こした。

村人は、サンガに福田を植える機会を得たことに興奮止まず、人々は皆、敬虔な心と感謝の心でもって、この一群の修行僧を、迎え入れた。

アチャン・マンと弟子たちは、この新しい場所に来てもなお、頭陀僧の伝統に従って、簡素な禅的修行生活を送った。

斎戒の日には、多くの村民が、山麓の、アチャン・マンが足をとどめている場所を訪ねたが、達白の両親もまた、毎回参加した。

その時、達白は、アチャン・マンの輝かしい名声の事は知らずにいて、彼女が知っていたのは、ただアチャン・サオとアチャン・マンは、兄弟のように親しい道友であり、菩提道において、お互いに支え合っている間柄である、という事だけであった。

達白は、両親と共に、アチャン・マンを訪ねる事が多くなった。

そして、アチャン・マンとアチャン・サオの二人の気質は、明らかに異なることに、気が付いた。

彼女は、アチャン・マンと親しくなるや否や、彼が勇猛で、エネルギーに満ち溢れている事を知った。アチャン・サオは静かで優しかった。

アチャン・マンは背が低く、また痩せてもいたが、しかし、彼の話す言葉は、アチャン・サオより活力があり、話をしながら、両手を振り上げ、動作は敏速で力があり、声は大きく、朗々としていた。

(3-16につづく)

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>