<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
彼女は、深い定からゆっくり抜け出すと、これまで見たこともない、奇怪な情景が、心の中に展開されたが、それはまるで、夢から覚めたかのような感覚であった。
凶暴な顔をした、頭のない鬼が、突然、どこからともなく姿を現し、ゆっくりフワフワと、彼女の視界に入ってきた。
頭の無い鬼は、胸に一個の、真っ赤な血の色をした目玉をはめ込んでいて、凶暴な目つきで、彼女を睨み付けた。
メーチ・ケーウはそれを見て、身の毛がよだったが、脅威が迫っている様でもあり、どうしていいか分からず、逃げようと思った。
その為に、定力が揺らぎ、恐怖と戸惑いに襲われた。
その悪鬼は、まるで彼女の負のエネルギーを吸い取ったかのように、突然体が膨張し、魁夷で嵩高くなった。
メーチ・ケーウの心が、乱れた。
この凶悪で危険な刻々、彼女は突然アチャン・マンの事を、思い出した。
かつて彼が教えた、怖い時には、決して逃げてはならない事。反対に、念を住めて保ち、清らかで明晰な心で対応せよ、という言葉を、思い出したのである。
この事に思いが行くと、心は即刻、清らかで明晰になり、その後に、メーチ・ケーウは、純粋な覚知をもって、心を今に、安定させた。
彼女は次に、心が震え、恐れ、慌てふためいている感覚に専注し、頭の無い鬼に注目するのを、やめた。
このようにして情緒が安定すると、恐怖は徐々に退散し、最後には霧散した。
この時、同時に、あの恐ろしい情景は淡くなり、最後には消えてしまった。
禅定から出て、メーチ・ケーウは、日常的な通常の意識に戻ったが、彼女は、恐怖が齎す危険性について、反省した。
彼女は直観的に、恐怖を齎す禅相自体が問題なのではなく、恐怖そのものが問題なのだ、ということを理解した。
禅相はただの心理現象で、心と身体を傷つける力はなく、また、禅相自体に好悪はなく、特別の意義もない。
心がどのように禅相を解釈するのかが、キーポイントで、それが危険の源であった。
もし、その解釈が、恐怖または嫌悪感を引き起こすならば、これらのネガティブで有害な情緒は、禅の修行中である心を動揺させ、心の静けさを破壊し、心から、理知を失わせしめるのである。
もし、この時に、注意力を、禅相の恐ろしい面に集中させるならば、当然、ネガティブな情緒の働きが強化され、危険の度合いが、拡大される。
恐怖と禅相は、同時に存在することはできない為、この時、禅の修行者は、禅相に注意を払ってはならず、恐怖自体に専注し、改めて<今・ここ>に、しっかりと安住するようにするべきである。
メーチ・ケーウは、清らかで明晰な内観によって、禅修行の時、彼女を傷つける事ができるのは、唯一、コントロールをすり抜けた怖気、恐怖心だけである、と気が付いた。
(4-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。
<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>