<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
持続的にサマーディに集中している心は、平等と不動揺を保持するが、それは徹底的な充実を感じせしめる。
これは、内在における結合が、ある種の非常になる緊密的な集中を有するという感覚があるからであるが、日常の思想(=思い)と感情は、二度と攻撃を齎す事はなかった。
この境地において、心は、二度と、どのような妄想も、する事はなかった。
それは己自身において、徹底的に静かで満足しており、何物も欠ける事がなかった。
安寧と静けさと、定の境地が持続される所の境地において、心は非常に力のあるものに変化した。その以前において、それが渇望した思想(=思い、考え)と感情は、現在では、嫌悪なる事柄と見做して、それを回避したし、以前においては、思考と想像を停止する為に、煩悩(=ストレス)が起したものであるけれども、現在においては、サマーディが慣性となった為に、それは何事かを思考したいという興味・趣向がわき起こることはなく、それは念頭(=思いつき、考え)をば、(+己にとって)歓迎されない所の干渉であると見做した。
意識の、知るという主要な特性が、それほどまでに鮮明であり続ける時、心は極度に、内に向かって専注し、何等の干渉も受け入れる事が耐え難いものとなる。
この甚だ深い安寧と静けさーー及びサマーディが心をして、平静にさせて、安らいだ満足の方向へと進ませるーーあれら持続的なサマーディを証得した人は、この境地を強烈に執着する傾向を持つようになる。
禅者は、長くこの段階にとどまるが、智慧がそれを超越した後において、効果は更によくなるのである。
(1-13につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>