南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<サマーディが如何に深く、また長時間保てたとしても・・・>

それ自体は、最終目的には、なりえない。

サマーディは、すべての煩悩を、滅し尽くすことはできないが、しかしそれは、理想的な一つの、プラットホームを提供することができ、また、その事によって、あらゆる苦痛を齎す煩悩を、全力でもって攻撃する条件を、整えることができる。

サマーディによって生じる甚だ深くて、安寧な静けさと定力は、智慧の修行に対して、卓越なる基礎を提供することができる。

しかしながら、サマーディ自体の問題は、それがそれほどまでに安寧と静けさを擁するため、人をしてそのことに満足させるが故に、禅修行者は、不注意にも、その中に耽溺してしまう可能性が、あることである。

それは、我が身の上に発生した:

私は、サマーディの平静さの中に埋没して五年、この平静こそが涅槃の核心だと信じ続けた。

私の指導者であるアチャン・マン(Venerable Ācariya Mun Bhūridatta)が、この間違った知見を直視するよう私に迫って始めて、私はようやく、智慧の修行を実践する事を開始した。

すべての痛苦を滅し去るための、智慧の開発に利用する以外、サマーディ(+に耽溺する事)は、禅修行者に間違った道を歩ませる事になる。

すべての、全霊でサマーディの修行に取り組む禅者は、みな、この種の陥穽に、注意を払う必要がある。

修行において、サマーディの主要な功能は、智慧の発展を支え・潤わすことであって、それは、この種の任務を遂行する事に、非常に適している。

というのも、安寧と静けさと定力のある心は満足して、外部に存在する刺激に対して、追求することをやめるからである。

定がサマーディにある時の覚知は、色、声(音)、香、味、触と関連する念頭(=思い)と衝突する事が無い。

安寧と静けさと定は、心が自然に自ずと調和した所の栄養であり、それがひとたび、歓喜の栄養を得たならば、心は満足し、二度とでたらめは動きをしなくなる。

それは今、すでに十分に、智慧の修行に勤しむ準備ができた・・・これには目的のある思惟、観察と省察が含まれる。

もし、心がいまだ安住できていないのならばーーいまだ感官の感受を追いかけ、思想(=思考)と情緒を渇愛しているのであれば、それによる観察は、永遠に真正なる智慧を齎す事はないが故に、その結果、ただ妄想、推測と推測に基づいた断定に至ってしまう外にないーーただ、過去に学習した事柄と記憶に基づいて、実相に対して、根拠のない定義を行うだけである。

この種の散漫とした思考は、智慧を齎さないし、苦の滅も齎さない上に、却って、それは集ーー苦の主要な根源になるのである。

サマーディは先鋭であり、内に向かって専注する為、智慧を支えて観察する事と、思惟する事の補助を、非常に上手くこなす事が出来る。

故に、仏世尊は、先にサマーディを修するようにと、我々に教えたのである。

心は、周囲の思想や情緒に干渉されない状態を保持する事が出来れば、全身全霊をかけて、覚知の範囲内で生起する一切に専注することができ、かつ、実際に照らして、これらの現象を観察することができる為に、想像や推測の介入を受けなくて済むーーこれが一つの重要な原則である。

観察が順調な事や、観察に熟練する事、これが真正なる智慧の本性である:

観察、思惟と明白な理解は、想像や推測の干渉を受けないか、または誤って導かれること(+から離れることを保証する。)

(1-25につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>