Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

《Vipassanāハンドブック》20-14(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ポットの説明をする時、もし、人々が以下の様に分別できるならば(+それは好ましい):

泥土は一つの事物であって、ポットはまた、別の事物である事。

泥土は最終的な、基本的事物であり、ポットはただ、心が認知した所の、概念に過ぎない事。

また、人々が知らねばならない事は、以下の通りである:

泥土はポットではなく、ポットは泥土ではない。

泥土をポットと呼び、ポットを泥土と呼ぶのは錯誤である。

このように、泥土は、ポットの本質ではなく、実体はない。

同時に、ポットもまた、空間のような空として見做すこと。

というのも、それはただの形状における概念にしか過ぎないが故に。

もし、一人の人間が、このように五蘊と色法と心法を観察する事が出来るならば、以下の様な結果を得ることができる:

この五蘊は最終的な、基本的事物であり、人と衆生は、ただの概念にしか過ぎない。

これらの概念は、色法と心の相続から来ており、故に、現象(phenomena)は、人や衆生であったりする事はない;

人と衆生は、現象ではない。

もし、現象をば、人とか衆生と呼ぶのであれば、これは一種の錯誤的呼称である;

もし、人と衆生をば、現象と呼ぶのであれば、これもまた錯誤であり。

この様に、現象は、人と衆生の本質ではありえず、彼らには実体はなく、すなわち、真実の本体とは、反しているのである。

故に、人と衆生は、明確に空無なる、無実体なのである。

というのも、彼らはただ、いくつかの概念にしかすぎず、これらの概念は、色法と現象界の不断なる相続によるからである。

上に述べたのは、無我(anatta)に関する、説明である。

上述の章で、すでに無常相、苦相と無我相についての解説をした。

「人と衆生は、今生と来世において、永恒に不朽である」と認める所の、この種の錯誤の観念は、すでに前文において、解説した。

現象界は、永恒不変ではない為、それらは刹那滅、刹那死するものであるーーこれは無常相である。

というのも、それらは不断に生・滅しており、この種の生滅現象は、一日の内に、計算できない程多数回であるため、すなわち、無常相と言い、また変異とも言うのである。

(20-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《Vipassanāハンドブック》 (原題 Vipassanā Dipanī) 

Ledī sayādaw著 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>