先日、IT のニュースを読んでいましたら「感情と思考(考察)」という文章がありました。
心理学の先生が書かれたものだと思いますが、仏法の修行とも少し似ています。
感情について、福岡ダンマセンターの勉強会でお話しきれなかった部分を、補足してみます。
私たち凡夫には感情があります。
楽しい事を思い出して、一人でにんまりしているのはまぁ、問題ないのですが、怒りや悲しみが大きい時、自分の器の小ささや卑屈さに、嫌気がさす時があります。
その時に「仏教徒は怒ってはいけないのだ」と自分に号令を掛けて、抑え込んでしまうのは、良い事ではありません。自分の心に怒りや悲しみが沸き起こった時、その感情をじっくり味わってみて下さい。それが<いい>とか<悪い>とかのジャッジを介入しないように、ただ湧き上がって、やがて消えていく感情を受け入れて、味わいます。
すると感情は、ほどなく消滅します。
これが心のエネルギーの働き、性質で、すなわち、生・住・滅であり、それは刹那的で無常なのです。ジャッジを介入せずに観察していれば、感情は刹那に生・滅する無常のエネルギーであり、無常のエネルギーには、実体がない事が分かります。実体がないものは、他者に影響を与える事ができません。
これが「手放せば(ジャッジしなければ)解放される」ことの本当の意味で、仏陀の智慧でもあります。
「仏教徒は怒ってはならない」とばかりに、教条的に己を抑制しても、その感情は地下に潜るだけで、いつかまた別の形で噴火します。己に湧き上がる感情をジャッジして、意味を持たせると、怒りや悲しみが実体性を帯びて来てしまい、圧倒されてしまいます。
それよりも
<今・ここ>の怒りを、
<今・ここ>の刹那の観察を通して、
<今・ここ>で昇華してしまう。
その様に何度も繰り返し努力・修習すれば、あなたはいつの日にか、笑顔のすてきな優婆塞・優婆夷になれる事、ゴータマ仏陀が請け合います。
追伸:上記の心理学の先生の主張は、<怒りを押さえない方がよい>という所までは仏法と同じですが、その後に、<怒りの齎す弊害をよく反省して理知的に処理する事>というものでした。
これは、一たび怒ったならば、怒りの収まりどころを知らないで、一日中怒っている人にはよい処方箋ですが、本質的な解決にはなりません。
上記の先生は、<怒ると自分が損をする>という《思考》、気づきへ導こうとしているのですが、他人の言動によって引き起された怒りは、己自身を傷つけることができない事を観察する方が、本質的な解決に向かいます(己の心の癖ーーー<業>を治す訳です)。
このことは、凡夫は結果をみて、その結果を何とかしようとするが、聖者は因(心の癖)を治そうとする、という風に表現されます。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>