もし、禅の修行者が過去と未来の名色法を識別出来ないのであれぼ、彼はどの様な過去が今世の名色法を引き寄せたのかを知る事が出来ないし、又、どの様な現在の因がどの様な未来の名色法を引き寄せるかを、知る事が出来ない。故に、彼はすでに “縁摂受智“ (paccaya pariggaha @āoaママ) を証得したとは、言えないのである。もし禅の修行者が、未だこの三智を証得していないのであれば、彼は真実の観智を証得する為のその距離は、天空と陸地との間の距離ほど、遠く離れているものである。であるから、聖道、聖果及び涅槃を知見する等と言う事は、触れる事も出来ないのである。。。………………………………………… 故に禅の修行者は、《清浄道論》の中に置かれている所の、即ち、何らかの業処を修習して、近行定又は近行定に相当するレベルに到達した禅修行者は、有分に落ち込む事が有る事を真剣に認めなければならない。この件を何度もこの様に確認するのは、ある種の、有分に落ち込む事のある禅の修行者が、“私は無所有を知見した“とか、又は “所縁(目標)と観照する心が、皆滅尽した“ と自称するが故に、である。。彼らは、己がすでに涅槃を証得したと誤解しているがしかし実際は、彼らはただ、有分に落ち込んだに過ぎないのである。 彼らには、有分心とその目標を識別する能力がないが故に、彼らは以下の様に言う: “ 私は無所有を知見した。“ 又は “所縁と観照する心が、皆滅尽した。“と。。……………………………………………………しかしながらもし、更に一歩進んで縁摂受智を育成するならば、彼らは、あの時は、尚有分心が存在していて、かつ、それらの目標は、前世の臨終の速行心の目標である事が分かるのである。ただ、有分心があまりに微細である事と、己自身が、未だ名、色と諸々の因を識別する事が出来ないが故に、禅修行者は、それを察知する事が出来ないのである。。。…………………………………………無為涅槃を証悟する時、心識は滅尽する事はない。と言うのも、道心又は果心が、無為涅槃を目標に取らねばならないが故に。唯一、心識の生起を暫定的に中止する事のできるのは、“滅尽定“注18(nirodhasamāpatti)の中においてのみである。そして、この体験は、四色、四無色禅(八定)を擁する諸々の阿羅漢とアナーガミ聖者のみが、滅尽定を証得する事が出来る。故に、ある種の禅修行者が報告する所の、“識はすでに滅尽した“ 又は “心はすでに滅尽した“ は不可能であり、涅槃の証悟とも符合しないのである。。。…………………… ★願以此功徳、早日証得涅槃楽!