Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-34

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

これらを除去した後、彼の心の中には、いまだ中等レベルの雑染がある。たとえば、欲望、憤怒、人(=他人及び自己)を傷つけたいという思いである。

熱心で、有能な比丘は、これらの思いを放棄し、駆逐し、廃止し、滅し取り除く。

これらを取り除いた後、彼の心には、いまだ微細なレベルの雑染がある。

たとえば、親族、故郷、名誉への思いである。熱心で、有能な比丘は、これらの思いを放棄し、駆逐し、廃止し、滅し取り除く。

これらを取り除いた後、彼の心には、いまだ法のレベルでの雑染がある。

彼の定は、いまだ安寧でも静かでもなく、殊勝でなく、軽安を得ていなく、一心に到達していないため、無理やり頑張るという心理状態でもって、(+定を)維持しなければならない。

しかしながら、あるレベルに到達すると、彼の心は内に向かって安住し、安定し、一心であり、専注する(+ことができる。)

こうして、彼の定は安寧で、静かで、殊勝で、軽安を獲得し、一心に到達し、無理やり頑張って(+定を)維持するということがない。

(2-35につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~不動心と正念正知(走り書き)

今朝、IT の記事を読んでいましたら、マインドフルネス、すなわち仏教では、<考えない事>をお勧めしている、というお話が、載っていました。

確かに、私たち現代人は、考えすぎてしまって、かえって身動きが取れなくなる場合が多々あり、脳内のおしゃべり、考えすぎを止める事は、とても大切なことだと、私も思います。

けれども、注意して頂きたいのは、考えなければ、なんでもOKかというと、そうでもないから、人生は難しいのでは、ないのでしょうか?

少し話が大きくなりますが、先の大戦で、日本の仏教界はあげて戦争に賛成し、それぞれの宗派が従軍僧侶を、戦場に派遣しました。

僧侶たちは「戦争で死んでも、来世があるから頑張れ!」と兵隊さんを励ましたそうですが・・・これは衆生の利益を考えた結果でしょうか、考えなかった結果なのでしょうか?(禅宗では、この時の戦争賛美を反省して、謝罪文を出しました。)

今身近の問題としてなら、<原発>があるでしょうか?

あなたは原子力の熱でお湯を沸かし、その蒸気でタービンを回して発電された電気を使いたいですか?

使いたくないですか?

それとも思考停止しますか?

我々は不動心を育成する必要はありますが、正念正知(何が正しくて何が正しくないかを、鋭い智慧で分別する事)も、育てる必要があります。

そうしなければ宗教バカになって、また再び、宗教集団による悲劇、または個人的な悲劇が繰り返されるでしょう。

(本日は忙しく、上記の文章を推敲をしないままUPしております。万一、失礼な表現がありましたら、本意ではありませんので、走り書きに免じて、お許し下さい)。

追加:近年、テーラワーダ仏教が科学的であることからヨーロッパ、アメリカで受け入れられた時、それはキリスト教徒でも受容できるようにと、心理学的な方向を重点的に有するようになりました。しかし、仏教は単純な心理学ではなく、八聖道という倫理性と人間性とが深く結びついている実践方法です。八聖道からマインドフルネスだけ取り出す手法は問題が多いと思います。

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~近況ご報告

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13日、駅前にある絣織専門店に行ってきました。

尼僧になったので、もう絣を着る事はありませんが、店番している人と雑談してきました。

仏教って何?」と問われたので:

在俗の人にとっては、仏陀の教えた 38 の幸せ(吉祥経)を参考にして、生きるのがよい。

輪廻から解脱したいと思う人は、修行しなければならない。これは理論も実践も、ちょっと難しい。時間をかけて、よく考える必要がありますよ・・・

などとお話しました。

大変喜んでくれて、お布施を下さいました。

彼女が、出勤途中に買ったばかりの、えんどう豆一袋でしたが、良寛さんみたいで、嬉しい(笑)。

15日、公民館主催の、エッセイ教室に行きました。

ブログでは自己流で文章を書いていますが、状況説明とか心情表現とか、もう少し上手になれないかな、と思って。

講座は 20 時終了で、夜の田舎道は、電飾で飾った大きなトラックがゴーゴーと走っていて、後ろにピタッと付かれてしまった時は、ちょっと怖かった。

18 日は、夕方、フェリーに乗って神戸に行きます。19 日に同窓会があるので・・・小・中学一貫校(インターナショナル・スクール)なので、幼馴染に会いに行きます。

一週間ほど前、愛犬オハナが打ち身で頬が腫れあがり、涙に血が混じるようになったので、「同窓会をキャンセルしたい」と伝えた所「あなたが来るというので、みなさん、楽しみにしているよ。いつもは出てこない人も来るよ」と言われて、急ぎキャンセルをキャンセル(幸い、オハナも、病院で止血と痛みどめの注射をしてもらった後、劇的に治りました)。

でも、まぁ、60 過ぎて、緬甸(ミャンマー)で尼僧になった変な同級生・・・珍獣、怖いもの見たさなんかも(笑)?

21日、四国土佐町に行く予定。

村民 4000 人の超過疎村に、なんと、あのインド

仏教の英雄佐々井秀嶺師が来るんですよ?

それに、私の息子が招聘したんですから!

行かない訳にはいかないでしょう(笑)。

そして、我が盆地からは、私を含め、3人が、一緒に土佐町に行くことになりました。人口一万人に3人、これ多いか、少ないか?

人口一万人の田舎町に、佐々井師に会いたいという人3人が意気投合。奇跡と思いますよ。

(佐々井師に興味のある方は、HP南天会をご参照のこと)。

今日は文章がバラバラですね。エッセイ教室、休まないで、頑張ってみます!

 

是誰庵のひとやすみ~唯脳論vs唯識論

6月10日付の<是誰庵のひとやすみ>のお題は、「脳にはNoを」でした。

この修行の理念・根拠は:

(1)心は一刹那に一つの仕事しかしない。

(2)心は仕事を終えると、エネルギーを使い果たして、消える。

(3)脳は、情報のストレージ、貯蔵庫であり、人生の主役たりえない。

の三項目からなっています(他にもあるかも知れませんが、私が分かるのは、この三つです)。

仏教では、「<身・口・意>に注意して生きなさい」と言います。

身は身体活動。

口は話したり笑ったり、口を通して行う活動。

意は、心による活動です。

上記を、よくよく注意して読むと、人生に大切なものは

<身口意>であって、脳ではないのが分かります。

仏陀は、脳にちっとも重きを置かなかった。

なぜでしょうか?

脳は情報の貯蔵庫で、脳から情報を引き出して使うのは心。

心が、人生の主役だからです(その心さえも、己自身のものではない、と仏陀は言います)。

唯脳論は、脳波を計ったりして、見かけは上は科学的であっても、実は、心を抜きにしては、人生は成り立たないことが、瞑想すれば分かります。

 

是誰庵のひとやすみ~定番のピンク

今年、果物の出来は、あまりよくないらしいです。特に、桃、杏、李などがダメなのだとか。

その代り、花は割と順調で、我が家のバラは、次から次へと花を咲かせ、実生のウツギも、白い花をいっぱい咲かせています。

写真は、バラ~~上段がポニカ、下段はラレーヌビクトリア(かな?)。

定番のピンクです。

ポニカは非常に強健なシュラブで、放任したままなのに虫もつかず、緑の葉を密に茂らせて、今では私の背丈を追い抜きました。

ビクトリアは、何が悪かったのか、膝丈しか伸びず、幹もヒョロヒョロしたまんま。それでも花は咲いてくれて、コロコロした花姿は、とても可愛いです。秋に一度、強剪定してみよう。

2週間ほど忙しく、翻訳はちょっとゆっくりになります。あしからず。

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☆「掌中の葉」(翻訳文)2-33

     <Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu>

その後に、鍛冶屋または鍛冶屋の弟子は、金粉を溶炉に入れて、それを、冶金し、精練し、鍛錬する。しかし、彼は、それでも金を炉から取り出さない。

というのも、残渣はいまだ完全には取り除かれてはおらず、(+そのため)金はいまだ柔らかではなく、用いるに難しく、光っておらず、砕けやすく、塑造しにくいが故に。

しかしながら、鍛冶屋または鍛冶屋の弟子が、(+引き続き)金を冶金し、精練し、鍛錬したならば、残渣は完全に取り除かれ、この時、金は、柔軟になり、用いるに易く、明るく光り、塑造し易い。

それを用いて、どのような首飾り、王冠、イヤリング、ブレスレットまたは金の鎖を作るにしても、その目標を達成することができる。

同様に、比丘たちよ。

増上心(すなわち定の修習)の育成に尽力する比丘は、彼の心内にある雑染、たとえば、身口意の悪行(+が存在するとしても)、熱心でまた有能な比丘は、これらの悪行を放棄し、駆逐し、廃止し、滅して取り除くのである。

(2-34につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~脳にはNoを(無常を観る)

知人の友人が、昔の嫌な思い出に翻弄されて、ウツ気味で入院したとの事。

昔のであっても、今のであっても、嫌な想いに翻弄されない、よい解決方法を一つ、紹介します。

我々は、時々、いや、度々、自分が被った、嫌な思い出を思い出します。

実は、我々は、案外、嫌な思い出を思いだすのが好きなのです。これを心の癖、仏教では、カルマと言います。

そして、思いだしては嫌な気持ちになり、自分をそんな嫌な気持ちにさせる、誰かさんを恨みます。

心は恨みに恨んで、やがて精神に変調をきたします。

ここで悪いのは、何度も嫌な思い出を思い起こす機能を持つ<脳>です。

ちょっと<脳>から離れてみましょう。

嫌なことを思いだしたとき、必ず、身体に反応が出ます。

ぞっとした感じ。

毛穴が開く感じ。

身体が冷える、または熱くなる。

その時に、<脳が考える事柄>に追随するのではなくて、身体の感覚に焦点を合わせて、それを観察します。

感覚は無常、アニッチャです。

この、身体に生じた感覚への観察を、何度も繰り返していると、あなたは、やがて以下の事が分かります。

嫌な思い出を何度も思いだして、自分を苦しめているのは、自分自身。

自分の身体に生じる感覚・反応を拒絶せずに、ただ眺める事、すなわち、もうすでに(身体上に)生じてしまっている事柄を、拒絶しないで、そのまま受け入れるのは、嫌な事柄を早く終わらせる妙技であること(感覚が無常、アニッチャであるという性質を、利用するのです)。

このように、己の心のありようを訓練すれば、嫌な思い出も、平常心をもって、ただ、眺めていられるようになります。

生きていれば、嫌な事、苦しい事に遭遇せざるをえませんが、どうか、心までは負けないで下さい。