もし、《カラマ経》と「四大教法」を掌握し、仏陀の制定した
決定と原則に従って探し求めるならば、我々は積み重なったゴミ
の中から、多くの、正しいものを選び出す事ができる。
これは、すべての論典に価値がないと言っている訳ではなく、
厳格に、仏陀の制定した決定と原則によって、正しい説法を
探さなければならない、と言っているのである。
タイ五代王朝の論師であったサマナチャオも、我々にこのよう
な態度で研究するように指示した。これはパーリ語論典も例外
ではなく、私は徹頭徹尾、この思想の追随者である。
「四大教法」に基づき、「法」と「律」に符合しないものは、
聞き間違い、記録間違い、説明の間違い、教え間違いだと
みなすべきだ。
縁起の最も重要な点は、常見と断見を破る事であり、故にもし
縁起の教えを、<人が三世の中で輪廻する事だ>と説明する
ならば、「四大教法」によって点検した時、それは受け入れ
られないものとなる。
《仏説縁起》という本は、我々にこの事を証明してくれる
ものである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)