原始パーリ経典の中から、仏陀の宣揚した法を探すならば、
我々は二種類の違い、区別をはっきりと、みつける事が
出来る。
第一の部分は道徳で、常見を有する人々を指導する
ためのもの。
もう一つは勝義諦で、常見を否定しながら、同時に断見にも
落ないようにしている。
しかし、後代、論書の時代になると、偏向の現象が普遍的に
出現し、常見でもって勝義諦ーー縁起を説明するようになった。
これらの論師は、縁起を「自我はある」すなわち誰かが死ん
だら、その同じ人が再生する、という風に説明するか、
またはすべてが物質で出来ていると言う立場で、
解説するようになった。
例えば、地獄は地下にあるといい、死んだ人が行く所だといい、
縁起の流れの中、<今・ここ>にこそ、地獄の恐怖がある、
という事は言わない。
縁起の法則によって感じ取る地獄があっても、
我々は依然として地下にあるべく想定し、または死後の事だ
とみなしている。
故に、縁起を研究するのならば、原始パーリ経典を基礎にし、
盲目的に、論師や論典に服従してはならない。
「四大教法」の原則に基づき、我々の主体性を維持し、
行使しなければならない。
このようにすれば、我々は、後の時代に、常見に偏向して
しまった論典の奴隷になる事はなくなる。(つづく)。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)