我々がお互いに注意し合わねばならないのは、仏教の真髄ーー縁起を、
万物霊魂論、すなわち神識が輪廻しているという考えを説明するのに
使う事について、慎重であるべき、ということだ。
この原子、宇宙の時代に、西洋の学者は、このような観念を嘲笑・
風刺しているが、日常用語で説明される道徳(常見を含む)と、
法の言語(究極の正見)から導き出された勝義諦ーー縁起とを
混同しない事が、重要だ。
縁起の法則に従って修行するならば、如実に中道である事が分かる。
経典に言われているように、縁起を理解する慧力を通して、
無上正見または出世正見を得る事ができるが、この種の正見は、
断見にも、常見にも偏向しない。
縁起とは、「私」(常見)と非「私」(断見)の間にある中道で
あり、その法則は「此有故彼有」「此滅故彼滅」である。
まさにこの法則こそ、仏教をして、断見にも常見にも落ちない事
を保証するものである。
我々が注意しなければならない事は、仏教をヒンズー教や
バラモン教と同じものとして説明してはならない、という
事である。
実際、常見の見解を持つ人は、本質的に縁起を受け入れる事
ができない。というのも、両者は本質的に対立するもので
あるから、である。
故に、常見で縁起を指導するならば、縁起の法則を破壊
しているのであり、このことについて、我々は慎重で
なければならない。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)