現代社会において、縁起については、二種類の説明の仕方がある。
その内の一つは、歪曲がひどく、実践できない縁起であり、
この歪曲された縁起は、1000年以上にわたって伝えら
れてきた。
もう一つは、直接仏陀の本懐に切り込む縁起であり、<根門
の触に対して注意を払え>という教えで、そうすれば、受か
ら愛を生じさせないようにする事ができ、今・ここにおいて、
実践する事が出来るだけでなく、(かつ速攻で)、収穫を得
る事ができる。
実際、普通に生活する一般人が、この種の修行を実践すること
ができたならば、それを縁起と呼ばなくても、見るべき成果を
得ることができる。
二種類の縁起が混同して紛れ込んでいる現代において、
心して仏教を学びたいと思っている人は、慎重に検討して、
仏陀の本懐に直接切り込む必要がある(と思われる)。
仏陀の教えた縁起はーー人に、善をおこなわなくてよい
とか、責任を負わなくてよいとか、是非を言い立てて
喧嘩を売るような、自分を粗末にする人を擁護する
ようなーーそのような<断見>ではないし、極端な
人々に見られる、今の自我に陶酔し、生まれて死ぬ、
所謂、段生段死の自我に陶酔し、または一切の「私」
「私のもの」に陶酔するところの、<常見>でもない。
縁起は、一般の人が考えているような浮薄な理論ではなく、
その反対に、厳粛な修行を伴うものであるーー根門の触が
生起した時、正念(sati)をもって受をコントロールし、
その後に引き続いて起こるであろう愛、取、有、生を生起
させないようにするものであるーー(この状況においては)
「縁起」という、重すぎる専門用語を使わないでも、
よいかもしれない。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループタイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)
訳者コメント:私は自分の前世を知っていますが・・・まぁ、
前世が王子だろうが女王だろうが、<今世でやらねばならない
修行>には余り関係がない(今世が貧乏なのは、前世で徳を
積まなかったから、という説明はまぁ有効としても)。
修行は、<今・ここ>でするものですから・・・。心の自動
反応への静かな観察者となる、これが縁起修行の真髄でしょうか。