Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー13

現代社会において、縁起については、二種類の説明の仕方がある。

その内の一つは、歪曲がひどく、実践できない縁起であり、

この歪曲された縁起は、1000年以上にわたって伝えら

れてきた。

もう一つは、直接仏陀の本懐に切り込む縁起であり、<根門

に対して注意を払え>という教えで、そうすれば、

を生じさせないようにする事ができ、今・ここにおいて、

実践する事が出来るだけでなく、(かつ速攻で)、収穫を得

る事ができる。

実際、普通に生活する一般人が、この種の修行を実践すること

ができたならば、それを縁起と呼ばなくても、見るべき成果を

得ることができる。

二種類の縁起が混同して紛れ込んでいる現代において、

心して仏教を学びたいと思っている人は、慎重に検討して、

仏陀の本懐に直接切り込む必要がある(と思われる)。

仏陀の教えた縁起はーー人に、善をおこなわなくてよい

とか、責任を負わなくてよいとか、是非を言い立てて

喧嘩を売るような、自分を粗末にする人を擁護する

ようなーーそのような<断見>ではないし、極端な

人々に見られる、今の自我に陶酔し、生まれて死ぬ、

所謂、段生段死の自我に陶酔し、または一切の「私」

「私のもの」に陶酔するところの、<常見>でもない。

縁起は、一般の人が考えているような浮薄な理論ではなく、

その反対に、厳粛な修行を伴うものであるーー根門の

生起した時、正念(sati)をもってをコントロールし、

その後に引き続いて起こるであろう愛、取、有、生を生起

させないようにするものであるーー(この状況においては)

「縁起」という、重すぎる専門用語を使わないでも、

よいかもしれない。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループタイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)

訳者コメント:私は自分の前世を知っていますが・・・まぁ、

前世が王子だろうが女王だろうが、<今世でやらねばならない

修行>には余り関係がない(今世が貧乏なのは、前世で徳を

積まなかったから、という説明はまぁ有効としても)。

修行は、<今・ここ>でするものですから・・・。心の自動

反応への静かな観察者となる、これが縁起修行の真髄でしょうか。