縁起の言語、または無上の法語は、我々をして如実に、物事の真相
を理解できるよう、支援してくれる。
例えば正見(sammāーdhiṭṭhi)は、一般の人または凡夫が使う日常
用語で説明するならば、この世界があり、他方世界があり、父がおり、
母がおり、天国があり、地獄があり、業があり、業を造る人と業を
受ける人がいる;今生と来世がある・・・これらは皆、普通の人が
理解し、執着する所の言語によって説明される。
中級の正見になると、正見は八正道の一つとなり、もはやこのよう
には説明される事はなく、それは苦と苦の滅尽を述べているだけ、
という事になり、かつ、苦を受ける「人」がいて、その人が苦を
滅しているとかの見解は認めないが、これもまた正見と呼ばれる。
無上の正見、または、如実なる出世の境界については、経典の中
において、さらに一層、深い説明がなされている。
如実に、縁起の知見を見極めるならば、実存主義(atthitā)に
偏向することもないし、虚無主義(natthitā)に偏向すること
もなく、(真理を)徹底的に見極めて、中道に安住するもので、
何を見極めるかと言うと「此有故彼有、此滅故彼滅」の縁起の
流れ、その中にはどのような「私(自我)」「人」というもの
も決して存在しておらず、天国、地獄さえも存在していない事
を、見極めるのである。
この種のレベルの知見を得たならば、それは、如実の中道と
呼ばれる。というのもそれは、断見にも常見にも、
偏向しないからである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)