Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-2

タイ語による序文

《無我》。この本は、ブッダダーサ(+またブッダタート、仏使とも言う。以下同様)尊者の、最も人を感動させる文学的著作のうちの一冊である。

本書は、1939年に執筆され、初刊は、法施社の出版する《仏教雑誌》の季刊の中で発表されたもので、その後すぐに、《仏使尊者長編著作集》の中に収録され、重版が行われた。

しかし、本書は、受けるべき相応の尊重をされることがなかったため、ブッダダーサ尊者の早期の著作を保護するために、タイの法隆解行基金会は、再度の編集を待たずに、二度目の発行を行った。

基金会は同時に《布施》《一般人の仏教認識》《仏法の修持と教義の宣揚》などの書物も出版して、読者に提供したが、これらの著書は、彼が「仏使比丘」に改名する前に書かれた、早期の作品である。

本書の中で語られる仏法の中の「無我」の教義は、周知のように、仏教の基本的で重要な教義であり、それは仏教をして、ほかの宗教(特にインド・ヒンズー教などの有神論系の宗教)と比較するとき、ことさらその殊勝さを発揮するものである。

ただ、インド・ヒンズー教の宗教が澎湃として発展し、かつ改革がなされ、仏教の教義と融合し、また、吸収したため、最後には、仏教はその発生の地――インドから押し出されてしまった。

また、仏教徒自身が、「無我」の教義に対する認識と理解が不確かで、多くの宗教師が「業」と「涅槃」の解釈をするときに、インド・ヒンズー教の教義を仏教の教えと混同し、そのために大衆を間違った方向へ指導し、その厳重な結果、大部分のタイの仏教徒は、仏教への誤解をもつようになり、かつ間違った観点に執着することとなった。

例えば、ある禅センターは、人に、注意力を一個の水晶玉に集中させるか、または心の中で仏像を観想するよう指導しており、かつ、禅定の境地を涅槃の証悟であると誤解しているのである。

また他には、ある種の人々は涅槃を「自我」と定義している。というのも、それは恒久であり、常楽であるように、見えるがために。

しかし、これらの観点は、仏教の「諸法無我(有為法と無為法を含む。後者は涅槃を指す)」の教理に違反している事は、疑いの余地がない。(+ )(= )訳者。

(つづく)

ブッダダーサ尊者「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pannay-adhika Sayalay>