Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~論より証拠

先日、禅がお好きな科学者(元大学教授)のHP を読みました。

科学者の目からみた、一般人の禅への誤解を解くために、大変ご努力をされているようにお見受けしました(納得する部分も多々あります。)

しかし、彼は「輪廻はない」というのです。

それは、仏陀の時代、仏陀に「輪廻はあるか?」と聞きに行った青年がいて、その青年に、仏陀は無言でいたから(無記という)というのが、その理由です。

日本の仏教徒で輪廻否定論者は、おおむね、この物語を論拠としているようです。

私が40年前に、タイへ渡って仏教の勉強を始めたとき、最初の質問が全くもって、この青年と同じ「輪廻はありますか?」でした。

もし輪廻がなかったら、仏教を学んだり辛い修行に耐える意味がない、それなら孔子の処世術~論語を学んだ方が、よっぽど実用的だと思ったからです。

タイの、仏法を教える資格のある僧侶はアーチャンと言いますが(アーチャリヤの訛ったもの)、彼は一言「自分で修行したらわかることを、(私に安易に)聞いてはいけない」と言いました。

仏陀の無記は、その質問が人生の苦楽の問題を解くのと関係がない時、その質問が妥当でない時(議論のための議論、詭弁など)、質問者の態度が失礼であった時など、10の要因があるそうです。

返事をしなかったからと言って、「輪廻はない」と取るのは早計なのです。

それならば、アネカジャーティで始まる仏陀の言葉「私は、私の中に、輪廻をする原因を見つけた」「ゆえに私はもう二度と生まれることはない」が何を意味しているのか分からなくなるし、そもそも「般涅槃」は何だったのか?ということにもなります。

ある・ない論争をしていても、泥沼にはまるだけ。

修行してジャーナに入れるようになったら、自分で(輪廻の有り無しを)体験できるから、言論は止む。

論より証拠。