<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
学生たちは、彼らの教師の様子をみて、心を痛め、意気沮喪し、教師は彼らと同じ凡夫であると断定し、教師への尊敬心を、喪失することがある。
聖者であっても、心を痛めるということがあることを、
≪仏陀の聖弟子伝≫の中に、ヴィサーカーの話が載っている。
ある時、ヴィサーカーは、真昼間の熱い日差しを受けて、世尊に会いに行った。
というのも、いつも彼女が食べ物を布施するときに手伝ってくれていた、心から愛する孫のダッターが、突然この世を去ったが故に。
彼女は、世尊に己の悲しみを訴えた所、世尊は、彼女が舎衛城に住む人民の数くらいの子孫が欲しいのかと尋ね、彼女は愉快そうに、同意した。
「しかし一体全体、舎衛城では、毎日どれくらいの人が死んでいるだろうか?」と世尊は訊ねる。
彼女は少し考えてから、答える:
「世尊。舎衛城では、毎日、9・10人、3・5人、または二人、少なくとも一人は死んでいます。舎衛城では、毎日、誰かが死んでいます。」
世尊は、このような状況であったなら、彼女は悲しまないだろうか?と尋ね、彼女は、このような状況の下、自分は毎日、悲しまずにはいられない、と正直に認めた。
世尊は言う:
100人の愛する人がいたならば、100個の悲しみが生じる。90の・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1人の、愛する人がいたならば、90個の・・・1個の悲しみがある。
そして、愛する者のいない人には、悲しみは、ない。
私は、ただこのようにでしか、憂、悲、苦、悩を乗り越えられない、と言う。
≪優陀那・8:8≫
(3-18につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>