<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
1、貪行意楽者:私は証悟しなければならない。
原因:上記(1)の事柄は、元々、既に、非常に執着の激しい人に発生する。
彼は世間的な名声と利益、地位を追求しており、また既に、非常に成功している場合もある。
しかし、一たび失敗したならば、彼は打ち続く挫折に耐えきれないで、宗教的な庇護を求めるようになる。
彼は、己の面子の回復のために、己が失敗者でないことを証明しようとする。こうして、彼は一心に涅槃を証悟したいと思いなすが、これは貪欲を含む意楽である。
無貪意楽者:漏尽者の証悟を得られますように。
原因:貪欲の禍を見た後の、その初めにおいては、あなたは、己をコントロールしようという欲を放下(=手放す)ことができない。しかし、あなたの誠意によって、徐々にではあるが、あなたは出離の心を育成することができ、何かを成就しなければならないという執着はなくなる。
証悟とは、欲求の成果ではなく、欲求を放下した時の成果である。
たとえ「聖者」、たとえば、漏尽者になりたいという希望でさえも、余計な事なのである。故に、あなたは、ただ証悟した後においてのみ、あなたの心が欲有・・・「聖者」になりたいという欲望、貪欲から解脱することができることを、真正に理解しなければならない。
「聖者になりたい」と思う事は因・縁法の内である;
証悟とは、「聖者になりたい」いう境地、想いからの超越であり、証悟されるのは究極無為法(因・縁の法を超越している)である。
このような正確な見解を具有する意楽が、無貪意楽である。
(3-27につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>