<無神論>であると、よく言われます。
私は子供の頃、これを真に受けて、仏教は神の存在を否定しているから、キリスト教より科学的で、真理に近いのだと思っていましたが、しかし、経典(吉祥経)に、「夜中に神が仏陀を訪ねて来て、幸福とは何か教えて欲しい」と言ったという逸話があって、それでは<神様って、いるじゃん>という事になって、長い間、頭が混乱していました。
最近になって、私がやらかしたこの種の誤解は、仏典の翻訳にも問題があるのではないか、と思い至りました。
仏陀ご在世の頃、または当時の印度(現在の印度でも)の常識では、デーワ、デーワター(神)はいます(パーリ語の使い方を間違っていたらすみません)。神通力のある人は、彼らと会話できる訳です(「メーチ・ケーウの物語」参照)。
個々の神々はいる。
しかし、宇宙全体を主宰している、宇宙全体を管理している所の<最高神>というのはいない、と仏陀は言っているのですね(そして、仏陀は、「我々が帰っていく所は、
<最高神の懐>ではない。<涅槃>を目指せ」と言っている訳です)。
日本では、ゴッド、アッラー、デーワ、デーワター等、何でもかんでも<神>と訳されていて、その為<神>に対する概念が整理されておらず、多くの誤解を呼んでいる、と私は思います。
神は、レベルの低いデーワ、デーワター(仏陀に教えを乞いにくる神々)、宇宙の主宰者としての神(キリスト教の父なる神、イスラムのアッラー、ヒンズー教のブラフマン)、宇宙的純粋意識など、日本では一括して<神>と訳されていますが、それぞれの民族、歴史、文化的背景によって、本来は、別々の言葉で表現しなければならない所の、非常に重要な、思想的キーポイントになる部分だ、と思います。
<神>について語るとき、自分は今、何について語っているのかを、毎回、己自身に問う必要があると思います。
そうすれば、仏教の要である所の、涅槃の概念も少し分かり易くなると思います。
(上記で、<(レベルの低い)神>をパーリ語で、デーワ、デーワターと表記しました。記憶に頼っており、正誤を確認しておりません。間違っていましたら、ご指摘下さい。)