先日、老人向け体操教室が終わる頃、
「お誕生日おめでとう」
という言葉と共に、可愛いタオルを頂きました。
そうですね、今年は私、年女で、72歳になります。
馬齢を重ねただけの、大した人生ではありませんが、自分で自分を一番褒めて上げたいのは、仏教の学びと修行への探求に関して、ほぼ一生、ぶれなかった、という事でしょうか。
子供の頃は、日本の大乗仏教の書籍を読んでいて、「これ本当に仏教なの?」と疑問百出・・・(<無常>と書くべき所を、<無情>と書いてあるのですよ?信頼できます?)
20歳の頃、「仏教の原点、本質を知りたければ、インドに留学しなければならないのかも」と思い始め、英語の出来ない私は、30歳の頃、縁あって、タイの森林僧院に行く事が多くなり、原始仏教~テーラワーダ仏教に、どっぷり漬かる様になりました。
50歳でパオ・セヤドーの著書『智慧之光』(邦訳『智慧の光』)に出会って、
「これこそ、自分が探し求めていた、仏陀の教えた、究極の仏法と修行法(サマタ・vipassana~止観瞑想)」
と思い定めた後は、仏陀の教えに対して、一度も疑惑を感じたり、動揺したりする事がありません(注1)。
72歳というは、棺桶に片足つっこんでいる訳で、そんな私にとって今後は、
「その時が来たなら、穏やかに死ねるか」
が、大きなテーマとなります。
幸い禅病も治りまして、本来の業処である安般念(アーナパーナサティ、出入息念)が出来る様になりましたので、禅定の智慧の光を整え、16観智、滅尽定(涅槃体験)目指して、頑張りたいと思います・・・牛歩でOK、なにしろ、丑年生まれですから(笑)。
注1=私は経典原理主義者ではありませんので、経典の一字一句すべて正しい、と主張はしません。
パーリ経典の中には、後世の人が加筆した文言がまぎれているかもしれませんし、非科学的な表現、神通など、高レベルの悟りを得ないと理解できない部分は、とりあえず、横に置いておきます。
仏法の一番の肝要は無常・苦・無我と涅槃の四法印だと思います。