私が、日本の仏教界、日本の僧侶たちの振る舞いに疑問を感じて、聞法と修行の場を、タイの森林寺院に求めたのは、30歳を過ぎた頃でした。
タイ語は一言「ニー・アライ?」(これは何ですか?)しか言えなかったのですが、バスを乗り継いて、バンコクの西部、カンチャナブリの山の中、スナンタ森林寺院に到着した私は、開口一番アチャン・K(日本人)にこう聞きました:「仏教って何ですか?」
アチャン・K:
「まぁまぁ、落ち着いて。
修行していれば、いずれ、すべて分かりますから。
今夜から、安般念やって下さい。」
(残念ながら、アチャン・Kは、38年間の修行生活に終止符を打って還俗し、結婚されましたが・・・)。
この時、アチャン・Kのお弟子さんに、現在、イギリス在住のアチャン・Nがおられました。
ある日の事、アチャン・Nの着ている大衣が珍しく感じられて、私はつい、アチャン・Nの衣を引っ張って、どのように縫ってあるのか、確認しようとしました。
その時、アチャン・Nは叫びました:
「比丘に触らないで下さい!」
私はびっくりして手を引込めましたが、その時以来、テーラワーダの戒律は、掛け値なしの厳しいものなのだ、と悟りました。
その後、私は、修行の場を緬甸(ミャンマー)のモーラミャインにあるパオ森林寺院に移しましたが、山の上に建てられたクティに住む比丘を尋ねて行く時は、必ず、もう一人の女性を同伴しました(私が頼まれて、同伴する側に回る事もありました)。
女性が一人で比丘の住まいを訪ねるのは、戒律違反です。比丘をクティに尋ねる場合、複数の女性または男性と一緒に、訪問する。比丘の住まいに到着したら、クティのドアと窓を、開け放つ(比丘自身が、ドアも窓も、開けて待っているはずです。)出来れば、比丘のクティを訪ねるのではなくて、周囲の目がある、食堂、大殿、庭などで話をするのがベターです。
比丘は梵行者であり、在家はそれを支える者です。比丘も在家も、双方が慎み深く、慎重に行動しなければなりません。 清らかな信頼なくして、師弟関係なし、であります。
テーラワーダの戒律<パーティモッカ>が、日本語で出版されたようですから、是非、ご一読下さい。