Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。

「身念処」2-20(100/203)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

2-2--3-1 なぜ自然な修法を用いるのか?

因・縁法は、自然律または自然的な法則(因果定律)である。

それらは、宇宙のどこにでも存在していて、仏陀はその真理を発見したのである。それは三つの特徴を有している:

1)諸行無常(因・縁の和合によって生じた、一切の事物は、皆、無常である。)

2)諸行は苦(因・縁の和合によって生じた、一切の事物は、皆、苦・・・不円満である。)

3)諸法無我(すべての事物は無我である・・・神と言う名の主宰者はいない)

涅槃も無我であるが故に、一切は無我である、と言う。

上記の三種類の特徴は、いつも存在しており、たとえば在家者であって、いまだ修行を開始していない人にとっても、そうである。

そして、在家の時、我々の身・心は、有我の煩悩に染まる事に相応しやすい。これが、なぜ自然な方法でもって一つ一つの仕事(=修行)を行わねばならないかという理由である。

そのように(+自然的な)実践をしなければ、自然の法則を見る事ができない。もし、非常にゆっくりと歩くならば、それは不自然であり、その時、自然な法則は、隠蔽されてしまう。

同様に、もし、歩くときに、歩く足だけを観照して、色身全体を観照しないのであれば、やはり不自然である。座る時、座る色身全体を観照しなければならない。仏陀は以下のようにはっきりと言っている:

サンガの中で、比丘は、歩く時は:

私は歩いていると、知らねばならない;

または立っている時は、私は真っ直ぐに立っていると、知らねばならない;

または座っている時、私は座っていると知らねばならない;

私が横になっている時、私は横になっていると知らねばならない。

このように、彼の身体がどのような状態であるか、彼は如実にそれを認識しなければならないのである。

(長部ーニカーヤ・大念処経)

(ここで仏陀が言う所の我、私という言葉は、コミュニケーションの為である。通常、ある種の動作の中に、一個人としての私、と言うものは存在しておらず、ただ心と身のみが存在している。

己自身の身・心を観察する事ーー他人のではなく。)

アチャン・ネンは問う:

「一人の人間が、歩く色身とは何であるか?という事をどのように知るのか」

答え:「一人の人間が歩いている様子そのものが、歩く色身である。但し、歩いている足だけに注意を払うのではなくて、全体の動作に注意を払う事。歩く色身は、明覚によって認知されるものである。」

(2-21につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>