<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
「観」(Vīmaṁsa)とは、明確にはっきりと地獄、輪廻における巨大な痛苦を覚知する事の出来る知識または智慧を指す。
この種の知識は、明確にはっきりと「如意」の利益を覚知することが出来、深くて沈潜する所の、艱難なる「法」に、また「法」の性質において、安住することができる。
この種の知識を具足する人は、「如意」を追い求める以外に、世間的な如何なる追求にも、楽趣を見出さない。
ただ奥深い「如意」を追い求める時にのみ、彼は満足を覚える。
「法」が深ければ深いほど、それを証得したいと思う欲望は益々強烈になり、巨大になる。
修行者は、四種類の「神足」の内の一種類を具足しさえすれば、その一生において、「身念住」における安住と、仏法におけるさらなる高度なレベルの、たとえば、「心清浄」、「見清浄」等において、不断に努力・精進するが、(+修行において)怠けたりもしないし、無気力になる事もない。
ただ、これまで一度も、なんらの「神足」をも具足した事がなく、生命の深浅や、法の深浅を区別する能力がない人は、無気力になり易く、如何なる努力も、継続しがたいのである。
(4-9につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>