法随法行の意味は、法の本質は、無常、苦、無我、空てあることを観ずる事。。 5蘊を無常と見做し、5蘊を矢の様だ、棘の様だ、病の様だ、空だ、無我……などなどと見做す。その様に見做す事によって厭離が生じる。。。 厭離は、修行上、非常に重要である。厭離があって初めて解脱したいと思う。。。 厭離がなければ、輪廻に執着する。これが、「観成就」である。。 論疏では以下の様に言う:「四神足のない人は、シューダラの子供の様である。神足のある人は(四神足の中の一つで良い)帝王の子供の様である。」 シューダラの子供は、帝王の子供になりたいとは夢にも思わない。というのも、彼には四神足が具足されていないが故に。。 しかし、帝王の子供は四神足が具足している為、引き継ぎ、己の帝国を保有する事ができる。。。 菩薩は、華麗な宮殿の中で成長し、栄華富貴を尽くした。夏には夏の宮殿があり、雨季には雨季の宮殿、冬には冬の宮殿があった。それでも彼は、生・老・病・死の事を考えた。これも又観成就であり、智慧でもある。。。 一般の衆生は、生活は苦しく、解脱を考える事もない。即ち、観成就に欠けているのである。