<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
現生受業(=今の生で業を受ける事)の状況、それはちょうど、シャーリプトラとマハーカッサバ尊者の(+実践した様子が知られる)ように、彼らは托鉢の前に、先に滅尽定に入り、出定した後、本日、機縁の熟する衆生は誰か、と観察してから、その人の所に行って化縁(=縁を結ぶ)したものである。
布施者の現生受業が大いに利益のある事、大果報がある事を願って、供養を受ける者は、先に修行・努力をしておかねばならない。
阿羅漢のように、すでになんらの煩悩もないという状況の下、彼らは布施する者が、更なる利益を得られるように、供養を受ける前に、まず、入定する。
私は、これらの事柄に深い理解があるが、しかし、私は、会う人々全員に、布施をする事はできない。
私は、布施する対象を目の前にしても、(+よき結果を)求める事無く、布施をする。
ただ与える為だけに、与えるのである。
もし、私に(+よい結果を)得たいという気持ちがあるならば、清浄なる僧衆に布施して初めて、更に多くの利益を、得ることができる(+事を私は知っている)。
七個の速行心の中の、最初の速行心は、その力が弱いが為に、その果報は、唯一、現生受業しか生じ得ない。
最初の速行心は、なぜこのように弱いのであるか?
たとえば、檀香で衣服を燻す時、合計七日燻す必要がある。
一日目、衣服に少しばかりの、檀の香がする。
二日目、三日目、七日目、衣服はだんだんに香るようになる。
一番目の速行心の力は、一日目に薫じた衣服のように、香が非常に淡く、力は非常に弱い。
七番目の速行心の力は、七日間燻した衣服のように、最後に最も香り、最も力がある(+のと同じである)。
七番目の速行心に最大の力があるとして、それはいつ、現実の果報となって現れるのであろうか?
それは第二番目の生(=来世)において、である。
第七番目の速行心の力は強く、我々をして結生せしめるのに十分であり、それは、我々をして、もう一つ別の、新しい生命を生じせしめるのである。
(2-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>