Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

私は迫られるようにして、改めて修行を開始した。

今回は、先に、一つのしっかりとした、礎になる杭を決めた。

どのような事が起こっても、私はそれをしっかりと握りしめて、手放さないようにした。

その杭とは ”仏陀”ーー仏を憶念する事であった。

私は念誦の詞として決めた ”仏陀” を、唯一の専注の対象とし、私は、己自身の心内において、繰り返し ”仏陀” と念ずる事を保持するように迫り、他の一切の事柄は、遠くへ排除した。

仏陀” は、私の唯一の禅修行の対象となり、同時に、念住を保持して、それが修行を引導するように(+心を)保った。

進歩だとか退歩だとかの考えは、すべて後ろに放り投げ、生起する事柄は、生起するままに任せた。

私は、古い思惟のパターンの中に沈潜することのないように、決意を新たにした:

過去を回想するーー私の修行は、あれほど順調に進んでいたーーこのように崩れ去った(などを思惟しない);

未来を幻想し、強烈な願望でもって、成功に導かれるよう期待し、過去の満足感に浸るような事はしなかった。

これより先、私はただ只管、目標に到達する事だけを期待し、目標を実現するために条件を設定した後、それが実現しない故に失望を繰り返す、というようなことは、しなかった。

実際、期待自体が成果を齎すという事はなく、ただ、念住を保持して修行する事だけが、成果を齎すのであった。

今回、私はしっかりと、祈願した。

どのような事が起ころうとも、私は、それに振り回される事はない。進歩だの、退歩だのを心配する事は、ストレスの根源であり、それは、私をして、<今・ここ>と、眼前のなすべき仕事に、専注できなくさせるだけである。

念住を保持して、”仏陀” を繰り返し念誦する事によって、修行の浮き沈みを防止することができる。

心を<今・ここ>の覚知に集中させる事は、今の私にとっての急務であり、私は二度と再び、妄想が私の禅修行を妨害するのを、許さなかった。

 誠心誠意、一切の苦を滅し去るために実践する所の、禅修行において、あなたは、修行のそれぞれの段階ごとに、全身全霊をかけて、己を投入しなければならない。

もし、あなたが、何らかの成就を得たいのであれば、己のすべてをかけて、それを実践せねばならず、些かの留保もあっては、ならないのである。

最も高度なサマーディを体験し、最も深い智慧を証得しようとするならば、あなたは散漫であってはならないし、いい加減であってもならない。

もし、修行の原則をしっかりと捉まえる事ができないのならば、永遠にふわふわとして定まることがない。

思い切りよく、修行に打ち込む事を決意しないのであれば、あなたは、一生涯をかけて修行したとしても、何等も得る事はないであろう。

始まりの段階において、一つの適切な禅修行の専注対象を選択するという事は、あなたの心の錨とすることができる。

ただ、随意・気ままに、不鮮明な対象に専注してはならない・・・たとえば、心内に存在しつづける覚知などを、対象としてはならないのである。

特定の専注の対象(+を定める事)によって、あなたが、あなたの心を止め置くことがないならば、あなたは、あなたの心が、外に向かって漂い出すのを、止めることはできない。

これが失敗の禍根である。

最後には、あなたは失望によって、修行を放棄してしまうであろう。

(1-8につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>