Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

般若の独り言~小池龍之介さんの懺悔

私は、小池龍之介さんをよく知りません。

彼の著書を、読んだ事もありません。

ただ、昨日、知人から

「小池さんは『後もう少しで解脱する』『仏陀になる』と言って、月読寺を売り払って、遊行の旅に出たけれど、色々な困難に打ち勝てず、自分の悟りは贋物であった、

と懺悔した」「you tube で彼の懺悔が聞ける」

という話を聞き、少しだけ IT で状況を確認してみました。

修行者の中で、「私は悟った(かも知れない)」という誤認をする人は、時々いる様です。

私も、緬甸のお寺(パオ・モーラミャイン本山)にいた時は、外国人である、出家(Sayalay)している、という要素から、非常に大切にされて、とても気分がいいので、半年、一年、怒りの感情がほぼ出ない、などという事がありました。

しかし、日本に戻って、元の立ち位置、主婦になり、妻になれば、仏頂面の夫の機嫌を取り、言う事を聞かない子供達の尻を叩き、毎日の献立に頭を悩ませ・・・緬甸での、あの心の平安はなんだったのか??? なんて思ったものです。

解脱を目指す出家者の集まるお寺(サンガ)や、一人住まいの精舎などは、勘違いの起こりやすい、不思議なマジックワールド、なのかも知れません。

もう一つの問題は、僧侶が法師(禅師も含む)であった場合、お弟子さんや在家信者に、毎日、仏陀のダンマを説くわけですが、これがいつの間にか「私は仏陀だ」「私は仏陀と同等の力がある」という類の勘違いを引き寄せてしまう事が、往々にしてあるのですね。

法師にとって「私は、縁有って、仏陀のダンマをかみ砕いて、皆様にお話させて頂いているが、まだまだ凡夫である」という自覚は、非常に大事だと思います。

己自身がどのレベルまで、修行が出来ているか?

アビダンマ、《清浄道論》、パオ・メソッドで点検できます。

パオ・メソッドでは、名・色分別(心と身体は、相互依存しながら、実は、別々のものである事。心の四種類の密集と、素粒子の三種類の密集を看破する事)と、縁起(12縁起、すなわち、自他の過去世、未来世を観る事)が出来て初めて、チューラ・ソータパナとなります。

チューラ・ソータパナとは、小さい初果、小さい最初の聖人、という意味です。

名・色分別と、縁起の修行が完成していなければ(近行定、四禅八定を含む)まだ凡夫です(あくまで、パオ・メソッドでの基準)。どうぞご自分で点検してみて下さい。

(小池さんが『自分は仏陀でもなんでもない』と気が付いて、公に懺悔された事は、勇気ある行為でした。間違いを間違いと認めて、再出発する人間を、応援しない人は、いないと思います。

還俗自体が、彼のパフォーマンスではありません様にと、お祈りしています)

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>