Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-48

また、もし、定が強く、精進が弱い時、定には、懈怠を生じる傾向があるために、心が懈怠に征服されてしまうことがある。

故に、あなたは、気の抜けた、だらしない心で、安般念似相に専注することをしてはならない。というのも、そうすると、それは懈怠の助縁になるから。

もし、精進が強くて、定が弱い時、精進には掉挙(心の騒がしさ、浮つき)と不安定の傾向があるため、心が掉挙に征服されてしまうことがある。故に、あなたは、あまりに過剰に(精進性を高めて)安般念似相に専注しようとしてはならない。

ただ定根と精進根がバランスする時のみ、心は懈怠または掉挙に落ちないで済み、その時、ジャーナに入ることができる。

精進と組み合わさった定は、怠惰に落ちないし、定と組み合わさった精進は、掉挙(浮つき)に落ちない故に、両者がバランスされたときに、安止(+定)に到達することができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-49につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~日本の仏教界

先日、新しく開業した病院に行きました。

最近、血圧、息切れ等、少々気になる体調の変化がありましたので(結果は、ノープロブレムでしたが)。

それで、頭が坊主になっている理由を、初対面の医師に説明した所、大変に驚かれて、二人の看護師さんと一緒に、色々話を聞いて下さいました(新規開店の病院なので、患者さんは、私一人だったこともあって~笑)。

南伝仏教テーラワーダ)の僧侶は、戒・律が厳しい事。

出家者は、独身か、または、家族をおいて、お寺に住む事(法的な離婚を、する必要はない)。

出家の日常生活は、修行が主で、儲け仕事にはつかない事などなど(そのために、近隣の在家の方々、また大旦那~大口の布施をするサポーター、檀越~が、全力で、修行生活を支えてくれる)。

「日本の仏教とずいぶん違うなぁ」これが、私の話を聞き終えた、お三人の感想でした。

結婚して、子供を産んで、その子にお寺を継がせて・・・、タナボタでお寺を貰った子は、何のために修行し、誰のために役立たねばならないかを、明確に理解し、決意することができるのでしょうか?

今は、戒名はいらない、お墓はいらない、直葬で十分、という人が増えました。

日本の仏教界はちょっと変だ、と誰もが気が付き始めたのです。日本の仏教界は、本来の働きを取り戻すべき時代が、来たのではないでしょうか?(私は緬甸のパオ森林寺院で出家しましたが、テーラワーダ至上主義者ではありません。人間がやる以上、テーラワーダ内部にも問題はあるし、大乗にもよい部分は一杯あると思います)

是誰庵のひとやすみ~女性の阿羅漢

タイや緬甸(ミャンマー)には比丘はいても、残念ながら、比丘尼は存在しません。その歴史的経緯を書くと、長くなるので、割愛させて頂きますが。

もし、女性の阿羅漢が出て、その人が女性出家希望者を受け入れたならば、テーラワーダ南伝仏教)でも、比丘尼が誕生する可能性はある、と言われています(その理由は、ゴータマ仏陀が、当時のインドでの、女性の地位、自治を尊重したのが初因ですが、これも長くなるので、説明は、割愛させて頂きます)。

先般、海外にいるサヤレーから一冊の本(中国語版、インドネシアで出版)が届けられました。題名は「メーチー・ケーウ 阿羅漢尼僧修道証悟の旅」。

タイでは、女性出家者は、比丘尼と区別してメーチと呼ばれます(緬甸ではサヤレー)。そのメーチが阿羅漢果を悟った、というのです。

ざっと目を通しましたが、目からうろこの、我々修行者に励みになるような、よいことが一杯書かれています(凡夫の私がなんとなく「阿羅漢というのは、こうなんだろうな」と思っていた部分が文章化、言語化されていて、非常に頼もしい)。

くだんのサヤレーには「この本を翻訳する」と、約束しました。

現在翻訳中の『顕正法眼』『「掌中の葉』、少々筆が止まりぎみの『目の中の塵』が終わりましたら、「メーチ・ケーウ」を翻訳します。

タイ語が中国語に翻訳されると、地名、人名は、漢字の当て字表記になって、まるで判じ物ですけれど、メーチ・ケーウは、アーチャン・マハー・ブーワの弟子らしいです。これが読み取れただけでも、まずは、ホッとします~笑。

ちなみに、アーチャン・マハー・ブーワの兄弟弟子がアーチャン・チャーで、お二人の上位指導僧がアーチャン・マンです。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-47

同様に、もし、その他の諸根、たとえば、定根、慧根が強すぎる時、よくない影響が起こる。

どれか一つの根が強すぎる時、その他の根が、各自の任務を遂行できなくなる事を、(+修行者は)知っておくべきである。

そして、信根と慧根、定根と精進根のバランスは、諸々の聖者が讃嘆するものである。

もし、信が強く慧が弱い時、迷信になりやすい。こういう人は、真実の利益に欠けた、または内容のない対象を信じ、崇拝したりする。

彼らは、正統な仏教以外の宗教が信仰、尊敬する対象、たとえば、護法の神などを、信仰する。

反対に、もし、慧が強くて信が弱い時、人は狡猾になり易い;自分自身は実際に修行をしないのに、一日中、批判や論評をするようになる。

彼らは、薬を飲み過ぎて(+副作用で)病気になったようで、治療するのは困難である。

彼は思う:「想像さえすれば良いのであって、実際に布施をする必要はない。それでも布施の善業は、得られる。」と。

彼は己の狡猾さと、業報の法則への誤解ゆえに、その被害者となる。

彼は智者の言葉を理解できないし、真理を理解することもできない。

故に、(+彼らは)薬を飲み過ぎて(+副作用で)病気になったようで、治療するのは困難である、と言われる。

信根と慧根の二者をバランスする事を通して、人々は、真実と、内容のある事柄だけを信じるようになる。

そして、信と慧がバランスすると、信じるべき事柄を信じることができる様になる。

彼は三宝を信じ、業報の法則を信じ、もし、仏陀の教法に従って安般念を修行するならば、彼は、安般念似相を体験して、ジャーナに到達できることを確信する。

もし、このような信心(=確信)を持って修行し、かつ智慧を運用して似相を見通す(=透視する)ならば、この時、信根と慧根は、バランスすることができる。

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。(5-48につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~期待値を下げる

先日、ある地方のおばぁさんから電話があり、人生相談に乗ってくれ、との事。

息子に呼ばれて、息子の車に乗ったら、お嫁さんとそのお母さんが一緒で、日帰り旅行をしたけれど、自分一人だけ浮いて、楽しくなかった、と言うのです。

息子さんが、奥さんに気を使って、奥さんと、奥さんのお母さんに優しくするので、実の母親に、優しくする時間が、なかったのでしょう。

でも、「一緒に行こう」と呼んでくれたのですよね。

まぁ、良しとしましょうよ。

そして、息子さん、お嫁さん、先方のご母堂、皆他人なんですから(この場合、息子は嫁さんのもので、立派な<他人>です)、他人には、過度に期待しないように、とアドバイスしました。

これ、期待値を下げる、といいます。

幸い、このおばぁさんは、お小遣いが潤沢らしいので「また同じことがあったら、行った先で、自分のお金でおいしい物を食べて、何か素敵なお土産でも買って、自分で自分を喜ばせるべし」と伝授しておきました。

(他人への)期待値を下げる。

これ、使えますよ。

 

是誰庵のひとやすみ~クムダ・セヤドー来日

先月末、クムダ・セヤドーが来日されました、日本の方がたに、瞑想指導をする為です。

セヤドーは、モーラミャインにある、パオ森林寺院のヤンゴン分院(モービー僧院)の住職さんで、私の二回目の出家の時の、戒師を務めてくださいました。とても優しい感じの比丘僧侶です。

現在この時間は、東京で瞑想を指導しておられると思います。

東京では、在京の緬甸(ミャンマー)の方々への説法も欠かせません。クリスチャンが日曜日ごとに教会に行くように、本来の仏教徒は、月に何度か、お寺に集まって(泊まって)戒を守り、説法を聞いたり、座禅・瞑想したりするので、東京の緬甸の方々も、このチャンスを逃すわけにはいかない事でしょう。

九州は、糸島で一泊瞑想会が開かれます。

私は、運営について、直接タッチしていませんが、参加したいと思っています。

日本の片田舎で、自分一人でパオ式瞑想をしていると、どうしても自己流になりがちですから、そこの所を質問したいと思っています、セヤドーは日本語を話されないので、通訳さんを通してですが。

再会できる日を楽しみにしています。

 

 

是誰庵のひとやすみ~バラに蕾が・・・

以前、♪バラが咲いた、バラが咲いた♪、という歌がはやりました・・・私はこの歌、あまり好きではなかったけど(ちょっと甘すぎかな?)。

我が家のバラに、蕾が・・・。

枯れて死にかけだったのが、庭に下ろして三年、今年、見事復活した白いバラ。一番元気者の赤いバラ、ピンクのバラ・・・その他色々、全員、見事咲いてほしいので、毎朝見回っています。楽しみ。

でも、花木の周りの雑草を取ろうとして、ふと、手が停まるのですよね。

雑草と言っても、それは人間が勝手にそう呼んでいるだけで、彼ら、彼女たちは、一生懸命、小さな体に小さな花を咲かせているんですよね。

私は超小さい、チマチマした花が好きで、老眼をこすりこすり、いつまでも見ています(摘んで花瓶に入れてもすぐ枯れるので、咲いている場所で見るのが一番。先日は、我が家の庭と、隣家の雑木林との境目に一輪だけ、一輪草が咲いているのを見つけて、息をのみました「さみしくない?」「けなげだね」って声をかけてあげて・・・)。

神は細部に宿り給える。

豆粒より小さい野の花を見ていると、本当に、そう思います。