Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-82

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

有分心を検査する時、毎回、ただ何秒か検査する事ができるだけである。

もし、検査の時間が、1、2分という長さに達すると、あなたは心臓に痛みを感じるに違いないし、定力も減退する。

故に、一回ごとの検査においては、有分心が検出できても、できなくても、何秒かの後には、再び鼻孔の出口にある安般似相を専注するために、戻ってこなければならない。

その時、強くて力のある安止が生じるまで、専注する必要があり、安般似相もまた非常に明るくある必要があり、そうである時、その後に再び有分心を検査することができる。

このように何回か行き来して検査をした後、あなたは有分心を検出する事ができるかもしれない。しかし、その後には、また再び安般似相に専注する為に戻ってこなければならない。

強くて力のある安止が生起するまで専注してその結果、似相が非常に明るく輝くとき、再度、有分心に注意を払う。

その時、あなたは安般似相が、有分心の中に出現するのを、見ることができる。ちょうど、鏡の中において、あなたの姿を映し出すことができるのと同じように。

有分心の明鏡の中においては、安般似相が顕現することが出来る。

その時、あなたは五禅支、すなわち、尋・伺・喜・楽・一境性を検査することができる。

(5-83につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-81

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

有分心は明るい光を生じさせる事ができるものの、しかし、有分心自体は心であり、光ではない。

有分心は、多くの心生色聚を生む事ができるが、これらの色聚の中の色彩は、明るい。

これらの心生色聚の火界は、多くの時節生色聚を生じる事ができ、それらの中にある色彩もまた、明るく輝いている。

光明の源は、これら心生色聚と時節生色聚の中の色彩から来ている。

光明の強度は、有分心に相応する智慧の強度によって決定される;

智慧が強い時、光明は増々光る。

故に、もし、有分心が観智の業力によって生ずるならば、その智慧が非常に強いという事によって、その光明もまた、非常に強く明るく光る。

こうした事から、有分心は有分心、光明は光明であって、それは二つの事柄なのである(+ことが分かる)。

有分心の発生は、一面の鏡のような清らかな光明で、また、上述したような火界であるため、隠喩的に有分と言われる。

「有分心が明るいというのは隠喩である。というのも、心には色彩がないが故に。」(≪殊勝義註≫)(5-82につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-80

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

8-8-2 五禅支の検査

あなたの安止定は、必ず、深くてかつ安定していて、少なくとも一時間、二時間、三時間等、長ければ長いほど益々よいが、それくらい長時間、持続できていなければならない。

私はあなたに、三時間、定の中に住することが出来る様になるまで、努力することを勧める。

もし、一回ごとの座禅・瞑想において、安止定の中に一時間、二時間、または三時間以上住していられ、かつ、このような状態を三日持続できるのであれば、あなたは禅支の検査を開始することができる。

禅支の検査を開始する前、必ず、先に、深くて強い安止定の中に、一時間以上入ることができていなければならない。

出定した後、心臓の下方の部分に注意を向けて、そこにおいて生起している有分心を観察する。

検査を開始する時、多くの禅の修行者は、有分心と禅相の区別ができない。

彼らは、心臓の中に、今、鼻孔の出口に出現していたのと同じ禅相を見つけると、彼らはそれが有分心だと思ってしまう。

実際には、それは有分心ではない。有分心は心臓の中の鏡のような様子をしている。

≪増支部≫(Aṅguttara Nikāya)の≪弾指の項章≫(accharāsaṅghāṭa chapter)の中で、仏陀は述べている:

”Pabhasaramidam bhikkhave cittam”ーー「比丘たちよ。有分心は明るいものである。」

(5-81につづく)

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay> 

 

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)2-7

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

更に奥深いレベルから見れば、メーチ・ケーウの修行は、無常生死を超越して、解脱の本質にまで到達している。

その覚悟・覚醒の心は、二つの、はっきりとした異なる面を持ち合わせている:

それは、心の能知(=知る事のできる能力)の本質と、その中において、生滅変化する心境である。

この区別を理解できないならば、我々は、変化する心境を真実だと見做して、これが心自身だと思いなしてしまう。

実際は、心境は瞬時に万変し、一刹那も安定することがない;

ただ、心の能知の本質のみが真実、恒常不変なのである。我々は通常、すべての事柄を雑駁に混ぜ込んで、それを心だと称している。

実際は、能知と心境が、同時に存在しているのである。

以上の洞察を得たならば、能知の心を覚悟・覚醒することができ、それは、所知(=知られる所のもの)の苦楽とは異なる(+別々の)事実だということが分かる。

心の本性は、一切の境界及び状況を知っているものの、しかし、それらに全く、一筋ほども、執着しない事である。

故に、心性は、苦楽の無常の境界を超越する(+ことができる。)

もし、我々がこの点について、見る能力(=直接知覚する能力)を持っているならば、世俗の真実を捨て、それらを放下(=手放す)ことができる。

このことを理解し、受けがうことができるならば、自然に執着から離れ、解脱することができる。

(2-8につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)2-6

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

もし、心の外にあるすべての属性を剥ぎ落とした時、その本質は性別もなく、階級もなく、地位もないことが覚悟・覚醒できたならば、我々は、我々の進歩を阻害する所のもの、我々の自由を制限している世俗的な区別、身分などの観念を、滅し去ることができる。

もし、我々を輪廻生死させる所の、束縛から解脱したいのであれば、必ずや、これらの世俗的区別を滅し去らなければならない。

この角度から見て、一人一人の心内にある、克服されなければならない根本的無明は、本質的にはみな同じであり、故に、人はみな平等なのである。

心よりさらに不思議なものは、ない。

一粒の、訓練を受けた心の、その能力は非常に不思議なものである。

メーチ・ケーウの心は、生まれつき勇猛で、活力が充満しており、禅の修行において、予知夢と天眼を運用して観察することは、彼女にとっては非常に簡単なことであった。

神通は、彼女にとっては、もとよりエネルギーの元であったが、同時に欠陥でもあった。

彼女はその中に何年も道を見失って、神通に沈み迷うこと(+の弊害は)、自我を克服しなければならないほどであった。

だいぶ後になって、己の心を統制することを覚え、そのときになってようやく、彼女は、この非凡な才能を、善くて巧みに利用することができるようになった。

とはいえ、人間の心の根性、生まれ持った性質は、一人一人、非常に異なっており、ある種の人々は、メーチ・ケーウのように非常に活発で、大胆であるが、ある種の人々の心は、慎重で保守的である;禅の修行においては、その両方ともに、利点がある。

非常に多くの人々が、修行がなかなか進歩しない、困難が重々多いと思っているが、メーチ・ケーウの心は活力に満ち、修行の速度は非常に速く、彼女のように、エネルギーが充満していて、また同時に、善くて巧みな方便を擁している心は、めったにあるものではない。

一般の人々は、彼女の、あの特殊な神通力と比較し、競うことなどできない。

故に大部分の禅者はみな、彼女の歩いた修行の道を、追随して歩む事はできないのである。

(2-7につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)2-5

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ほとんどのメーチは、比丘が住職をしている寺院に住んでいて、少数のメーチは庵に住んでいる。ただ、この庵も、通常は、その地域の寺院に所属していることが多い。

修行を主な目的とする道場、特にタイの森林仏教の伝統では、女性たちに自由な時間と、基本的な必需品を与えて、彼女たちが全身全霊で、出家生活に打ち込めるよう、配慮している。

故に、多くの女性は、この種の寺院に付属するメーチの団体に加入して、修行することを選択することが多い。

幸いなことに、仏教徒は、社会は、異なる職権と地位によって、運営されている事を知っているため、一人の女性の社会的地位と、彼女の人格・人品とは無関係であることをよく知っているが、このような理解は、問題の影響を削減するのに役立っている。

大部分の伝統的な文化の中では、男女の差別は根深いもので、この現象は、宗教圏の中にも同様に見られる。

ただ、そのようであっても、性別は、過去の業から齎されたもので、一種の運命であり、故に暫定的なものであり、来てはまた去るものであり、そして、生命の本質は無名無相であり、男でもなければ、女でもないのである。

仏法の基本的な原則は:

いかなる人の属性も、みな、実質がない――一切の形成された個人独特の個性の要素は、みな変化して無常であり、最終的には、滅し去る。

一人一人個性は変化し続けており、それが永遠に存在したことは一度もない。

ということは、あらゆる”自我”を構成する所の因と縁は、みな無常であり、変動して定まらないものであり、色身の一切、内心の思想と感覚、そのすべてに実質はなく、最後にはみな消えてなくなるものである。

それゆえ、心身に執着する事は、憂い悲しみ、苦悩の主要な原因である。

(2-6につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道 Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-79

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

その他の不善法もあるにはあるが、≪分別論≫の中では、五蓋が紹介されていて、それは、それらと禅支が対抗して、相応しないからである。

というのも、五蓋と五禅支とは、相反しており、その意味は、五禅支はそれらと相応しない、五禅支はそれらを除去するし、それらを滅しさるから、という事である。

定と欲欲は相応しない;

喜と瞋恚怨恨は相応しない;

尋と昏沈・睡眠は相応しない;

楽と掉挙・後悔は相応しない;

伺と疑は相応しない。

(5-80につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>